2005年 3月24日  HP開設のごあいさつ

  当院のHPが完成いたしました。
今はまさにインターネットの時代であり、情報の多くはそこで収集されるようになっています。HPの役割というのはその会社の宣伝であるわけですが、正しい情報を発信 し世の中に広めるという重要な目的もあります。
  現在、癒し系が流行し、整体・マッサージ・リフレクソロジーなど、巷では溢れかえり、 患者さん自身どこへ行けば良いのか分からなくなってきています。 また、間違った情報が多いので患者さんも適切な治療が受けられません。私は治療家として、患者さんを助けると 同時に正しい知識を普及する一端を少しでも担えたらと思っております。

2007年 6月15日  更新の努力

 HP立上げて2年3ヶ月、初めての更新です。パソコンをいじるのは好きな方なのですが、なぜかHP関連はおっくう で手をつけようとしませんでした。まあ今も決して特別なことはできませんのでここに少々書込みをすることぐらいしかできないのですが、実際我々の仕事とい うのは物を売ったり変わったサービスを提供する仕事ではなく、一言で言えば患者さんの身体を楽にさせることなわけです。ですから、そうそうやることに変わ りはありませんので更新するようなことは特にないのです。とは言っても自分自身は日々更新し技術と知識を磨いていかなければなりません。○○コースだと か、ゲルマ温浴といった様々なサービスを増やすのは経営として悪いことではないでしょうが、治療家としての誇りや修練を忘れてはならないと思います。まあ これからはここだけでもなるべく更新するように頑張ります。

2008年 3月6日  理想の治療院

 前回更新してから気づけばもう9ヶ月、頑張ると言いながらこの状況です。 さて、3月に入りいよいよ花粉の飛散が強くなってまいりました。みなさんいかがお過ごしでしょうか?私は約17年くらい前に発症しましたが、徐々に年数を 経るごとに治りつつあり今年は今のところ発症しておりません。もしや完治!?などと喜んでいると後でガッカリさせられるのであまり期待しないようにしてお ります。花粉症をカイロやオステで治せればいいのですが、一般的に効果があるといってるのはあくまでも対症療法であり根本的には体質が変わらない限り難し いでしょう。

花粉症に限らず少し前まではけっこう色々な治療法を積極的に勉強してたのですが、最近は基盤造りにもう一度修行しなおしておりました。ただ、なかなか根本 的に治すという自分の理想と患者さんの要求という現実が一致しないため、患者さんが満足をあまり得られなかったかもしれません。ですからまた対症療法も積 極的に取入れて、患者さんにも満足していただけるようにしていきたいと思っております。治療の質が良いのは大前提ですが治療院とはただ治療してお金を頂い て終わりというものではなく、患者さんと治療家にとって相互に喜びと夢を叶える場所でなければならないと最近は思うのです。機械的に仕事をこなしお金を得 るというだけでは生きる喜びの大半を失うことになるのではないでしょうか。体が辛いときはもちろん心まで元気になれるそんな治療院を目指して頑張りたいと 思います!

それから料金体系をまた戻させて頂きました。その方が結果的に患者さんのためにもなると考えたからです。ただしホームページを見てご来院いただいた患者さんには割引させて頂きます。詳しくは施術内容のページをご覧下さい。

2008年 5月4日  中庸であること

 ゴールデン・ウィーク真最中ですが、みなさまどう過ごされてるでしょうか。昔はこういった連休は楽しみにして出か けたりしたものですが、最近はあまり興味が無くなりました。歳をとったせいもあるのでしょうが、映画や音楽といったものにも関心というか感動が薄れてきま した。というよりは仕事と子供のことでそういう余裕がなくなってきたのかもしれません。

昔、ある先生に勉強は結婚前にたくさんしておいた方がいいぞと言われたことがありますが、最近はそのことを実感しております。でも子供と言うのは本当にか わいいものです。どんなに苦労しても今のそのかわいさと、将来の家族の在り方を考えれば十分価値あることです。家族というのは空気のようにな存在ではあり ますが、なくなっては決して生きてはいけないものです。ついつい手を抜いたり面倒くさがったりしてしまいますが、気がつくたびに初心に帰ります。夫婦とい うものも同じであると思いますが、非常に的を得た言葉を最高の武道家でありそして哲学者であるブルース・リーという人が彼の記したノートに残しています。

『興奮から生まれる幸福はキラキラ輝くようだが、すぐに消えてしまう。結婚前に私達は決してナイトクラブへ行くこともなく、ただ一緒にテレビを観たり、お しゃべりをしたりして夜を過ごしたものだ。若いカップルの多くは、恋愛中に大変エキサイティングな時を過ごしている。だから、実際に結婚してから、平凡と 倦怠に陥り、やがて不幸な結婚のつらさに耐えきれなくなってしまうのだ』。

真の陰陽は極端に走ることなく、平静と中庸によって表されるという老子の思想によるものです。結婚前というのはとかく相手に気に入られようと、あるいはよ り関係に刺激を与えようとするために、常に新しいものを求め続けます。その結果、麻薬のように刺激はどんどん強いものでなければ効かなくなってきます。そ してその刺激がついにマックスに達したとき幻の愛は終わります。麻薬中毒者は廃人となります。

これは我々の仕事にも言えることです。患者さんの興味を引くためにいろいろ新しいものを始めたとしても、いつか患者さんはそれが幻であったことに気づきま す。流行や刺激などで関係を繋いでいくということは非常に空しいことです。『良い客は三年宿を変えず、良い宿は三年客を変えず』という言葉がありますがま さしくその通りです。家族においても過剰なサービスは必要ないでしょうが、小さな思いやりを持ち続けていくことが安定した関係を保つ秘訣と言えるかもしれ ませんね。

2008年 5月27日  デジカル化への危惧

 ここ数年、子供をビデオで撮りDVDに作品化するのが趣味になっています。今は本当に便利でしかも多様性に富んだ 時代になりました。昔は一般家庭であればせいぜい白黒写真くらいしか記録媒体がなかったでしょうが、今ではほとんどの家庭でビデオカメラが使われていま す。パソコンや携帯電話なども完全に普及されました。ソフトも簡易化され誰でも使えるようになったため、素人でもかなり高品質な作品が作れます。

しかし、最近ふと思うことは機械化が進み、簡単かつ高精度なものが作れるようになると、人間は感性が衰えてしまうの ではないかと思うのです。映画よりも写真や漫画、写真や漫画よりも小説の方が想像力を掻き立て、それらを観た人の数だけ作品ができあがるのではないでしょ うか。写真の魅力というのはある一瞬をとらえられることであり、その一瞬の写真の中に魂を吹込むことで最大限に表現することでしょう。動画にはない魅力で す。絵も同じですが観れば観るほど様々な想いが浮かびます。また、手書きや手製によってたった一つの作品になり、いつか見た時により一層ノスタルジーを感じることでしょう。

昔は達人と言われる人たちがたくさんいました。この方々は機械に頼らない「感覚」によって技が熟達しているのだと思 います。武道家は全身の感覚を統合し肉体で表現するアーティストであり、大工は感と経験、そして素材に「聴く」ことにより優れた構築物を創り上げます。カ イロプラクターも同様ですが最も優れた診断器具、治療器具は「手」であり、画像やコンピューターなどの診断に頼りすぎるべきではないでしょう。もちろんそ れらは有効であり必要なものですが、頼りすぎると感覚は退化してしまうでしょうし、また手には機械では量ることのできない何かまで感じることができるで しょう。同じテクニックで治療しても効果が違ってしまうのはそこに通ずるものがあると思います。

デジタル化すると誰がやっても同じ結果が出るので便利ですがその分個性も感動も産まれません。そのようなキチキチと した生活になったためストレスも増え、精神的に疲れて病気になっていくのかもしれません。だからアナログなグッズが売れたりするのでしょう。もう少しアバ ウトに生きられるといいですね。

2008年 6月17日  強力!心の法則

今回起きた秋葉原の無差別殺傷事件、最近本当にこのような事件が多いですね。20年前に起きた宮崎勤幼女連続誘拐殺 人事件も今日で死刑執行により終止符が打たれました。しかし、遺族の方の心の中は決して晴れることはないでしょう。光市母子殺害事件で死刑を勝ち取った本 村洋さんはインタビューで「今回元少年の被告が死刑になったことで、本村さんの心は癒されるのでしょうか。」という質問に対して「癒されるということはあ りませんが、納得はしました。」 とお答えになりました。普通ならば感情的になり言葉が乱れるところを、いつも論理的で人を納得させる答えをされてます。私には真似できない本当に立派な方 だと思います。

このような事件が続くともし自分の家族に同じ様なことがふりかかったらと想像せずにはいられません。考えれば考える ほどリアルに頭に浮かびます。ですがこれは非常に危険なことです。マーフィーの法則、ナポレオン・ヒルをはじめ様々な心の法則でいわれていますが、思考は 現実化するというのは間違いのない事実なようです。人間は基本的に否定的な想像をするものなので、成功イメージを持ち続けるということは大変な努力を要し ます。放っておけば常に否定的なことばかり考えてしまうでしょう。失敗やツイてないときは尚更です。ですから毎日家族の危険を必要以上に想像することは容 易いことですが、これは危険を願っているのと同じ行為だといえます。

西洋には黒魔術と白魔術があるようですが、実際にはこの二つに明確な分類はないそうです。これらは使う人間の心のあ りようで黒魔術にも白魔術にもなるのです。つまり、恨みや妬みなどのマイナスのエネルギーで使えば黒魔術になるし、成功や発展などプラスのエネルギーを 使って祈れば白魔術になるということです。心とは常に中庸であり術式そのものにも悪も善もないということは、使う人次第であるということになります。正を 与えれば正が返り、負をあたえれば負が返ってくるという法則、即ち「作用反作用の法則」というシンプルな法則によって宇宙は成り立っています。今でもブー ドゥー教の呪術で人を呪い殺している人々がいるようですが、そのカラクリもシンプルな心の法則で説明がつくようです。呪術を行うものは必ず式を行った旨を 被術者に伝えるのです。それにより被術者の心の中に恐怖心を植え付け、結果その自らのマイナスの思念で病気や事故などへ導かれてしまうのです。つまり、必 要以上の不安や心配は自らその心配事を現実化させているということになるので気をつけなければなりません。

ただ、危機管理は常にしなくてはならないでしょう。単にマイナスの気持ちで想像するのではなく、もしこうなったらこ うしようとか事前にシュミレーションをたてるために想像するのはいいことだと思います。この場合には否定的な気持ちではなく単なる状況設定で想像している ので、エネルギーは中立位にあるため潜在意識は心の青図に反応しません。しかし、マイナスであろうとプラスであろうとエネルギーが産まれると方向の違いが あれどそれは「祈り」となり潜在意識は作動してしまいます。

私は家族と出掛けるときは常に状況ごとに心の準備をするようにしています。そして、最低限の訓練を約20年間受けて きています。それでも実際に起きた場合100%対応することはできないでしょう。たった一瞬目を離したスキに子供の命を奪われる可能性もあります。ですか ら後悔のないようできる限りの準備と注意をしています。こういう事件はいくら何かを規制したり法律を変えたりしても絶対になくなるものではないでしょう。 世の中をあてにするよりも自分を変えた方が確かな効果があります。皆様もご自分と大切な家族のために是非危機管理を行って下さい。

2008年 6月29日  武医同術

整体やカイロ、あるいはマッサージなど手技療法を生業とする方が最近は増えています。しかし、そのほとんどが「癒し 系」という一つの独立した形態で行われています。その理由はやはり何といっても「手軽」「ローコスト」といったところでしょうか。少し習えばできそうとい う考えが、習う側にはもちろん教える側にもあるので数週間や数ヶ月で認定書などを発行するスクールが増えているのです。設備もお金をかけようと思えばいく らでもかけられますが、逆に最低限ベッド一台あれば始めることも可能です。

どんな仕事でも簡単にできるものなどはありません。もちろん適当にこなすことは可能でしょうが、適当にやればそれな りの結果しか得ることはできないでしょう。他にやりたいことがないし、とりあえず簡単そうなのでやってみようという人が非常に多いと思います。別にそれを 否定するつもりはありません。ただ、マッサージを整体、あるいはカイロプラクティックという名称で施術したりするのは、患者さんにも真剣に取り組んでいる 治療家の方にも、また真面目にマッサージを行っている先生にも失礼な話です。

私が治療の道を歩み始めたきっかけは武道を実践していく過程にありました。武道とは一般的には人を倒す技であると考 えられていると思います。しかし「武」とは元々「戈を止める」という意味でした。もっと掘り下げると「戦争や無駄な闘争を止めさせ、安定した国や世の中を つくる。」のが本来の「武」なのです。つまりは人を活かすための術であるわけで、結局は医術と方向性は同じものであると言えます。武術の技というのはその 使い方により人を殺めることもできるし、使い方により活かすこともできます。武の術は即ち医の術であり、武医同術という言葉で表現されます。武と医は裏と 表、即ち「陰と陽」の関係であり二つに切り離すことができないものです。ですから武を知りたければ医を知らなければなりませんし、その逆も同じです。もし 肩の脱臼を整復したければ肩のはずし方も学ばなければならないということです。まあこれはあくまでも柔術に伝わる古式法であり、現在一般的に行われてる整 復法とは違うようですが。

また、武道の体の使い方とカイロプラクティックや整体などの体の使い方はよく似ています。というよりも同質のもので ありこれらは肉体表現によるアートであるといえます。洗練されたテクニックはアートです。例えば爪先や膝、腕の方向と矯正方向に一致させるということは、 打撃においても同じで最大の力を発揮するために重要なことです。また、リコイルと呼ばれるカイロプラクティックのアジャスト方式は、出すよりも引きを早く するという打撃の理論とも一致します。早く引くことによって結果的により早く出すことができるのです。

ちなみに武術と医術の両側面を壮大な格闘ロマンで描いた漫画「北斗の拳」はご存知の方も多いと思います。武力によっ て世界を支配しようとする長兄ラオウ、病人やケガ人を救うために北斗神拳を使う次兄トキ、まさに対極な二人ですが武医同術を表現した傑作漫画です。しかし これからの世の中は戦争など必要のない啓発の時代です。神業と言われた合気道の達人、塩田剛三先生は「人を殺めるための合気は私で最後だ。これからは人と 人を結びつけるための合気を伝えればよい。」といって自分の技を封印したまま他界されました。人にはそれぞれ生まれ持った使命というものがあると思います が、私は人を倒す技を磨いたり伝えたりするよりも人を活かすために生まれてきたのだとこの仕事に就いて思うようになりました。ラオウやケンシロウの役目は 人に任せて私はトキになりたい。生きていくためにはそのくらい強烈な存在理由を自らに課してちょうどいいと思います。みなさんにはミッション(使命)があ りますか?

2008年 7月28日  変化と適応力

夏 も本番、毎日暑い日が続きますが皆様お元気でしょうか?私は暑いのは嫌いですが季節としては嫌いではありません。何となくエネルギーに満ちて、生産的、行 動的、落ち込むスキもないほど高揚感のある季節です。その反対に冬は嫌ですね。ややもすればすぐ落ち込みそうな季節です。夏の失恋は吹っ飛ばせそうです が、冬の失恋は確実にへこみそうです。

ところで今から約20年前の夏、私はある大手予備校の夏期講習に通っておりました。ご存知の方も多いかと思われますが数学の秋山仁先生のクラスに出席して おりました。たまたまある日の授業を録音したテープがいまだに残っているのですが、この日の授業を今でもはっきり憶えています。秋山先生の授業は半分は人 生哲学でしたが、私の人生にとって数学の授業よりもはるかに多大な影響を与えた授業でした。受験生の夏休みの過ごし方についてだったと思います。

『大学受験なんてものは何回落ちたって人生において悲観するにも及ばない微々たる経験であり、重要なことはこっから数ヶ月どれだけ死に物狂いで努力できた か、その努力ができたという経験こそが宝である。これから先、社会に出て何年かに一回、にっちもさっちもいかない、食うことも、一歩前進することも、一歩 後退することもできないそんな困難に出会う。そのとき、過去に死に物狂いで努力をできたという経験を持つ者だけが、乗り越えられるんだよ。だから私はみん なのお母さんやお父さんのように受かったらいいななんて甘いことは考えていない。むしろ落っこちた方がいいとさえ思っている。やりたいことは我慢して自分 を律する。ちょっと野球が観たいな・・・観ない!、彼女に会いたいな・・・会わない!。会わないと他の男にとられちゃうかもしれない・・・いいんです、そ れを人生という。自分の女が永遠に自分のモノだなんて思っているヤツはあっという間に滅びる・・・。』

そんな内容の話が30分以上続くのですが、要は試験まで残り数ヶ月しかない期間をいかに寝食を忘れて頑張れるかという話です。しかし、健康な高校生に理解 できるわけがありません。もちろん私もその時は漠然と理解はしたものの、本当の意味では分かってはいませんでした。ところが、社会に出てから何年かすると それを実感として理解できる機会が何度も訪れました。頭で理解しているのと実際にそれを表現したり、行動できるのとは別です。経験者だからその苦しみはよ く分かるよという人がいますが、半分はウソだと思います。たとえば何回も出産経験があったとしても、今まさしく目の前で陣痛を起こしている人の気持ちには なれないでしょう。

ましてや、『自分の女が永遠に自分のモノだなんて思っているヤツはあっという間に滅びる。』 なんて仏教でいう諸行無常じゃありませんか。それが理解できたら涅槃の境地ですよ。でもあえて少しそこを掘り下げてみましょう。

みなさんは一年前の自分と今の自分は同じだと思いますか?細胞が入れ替わったらから違うとか、成長して大人になったから違うと言いながらも、実際はそこに 「私」と呼ぶ実体的「我」を想定し、成長変化してきた私そのものをつかまえて、私は私であると考えているでしょう。しかし、諸法無我はそれこそ我執である として退け、変化そのもが私なのだと説いています。例えば「自然」を大切にしましょうというと皆さんは緑や木をイメージするでしょう。でもあれは「自然」 ではなく自然の産物であり一つの形態に過ぎません。「自然」とは「あるがまま」、即ち、成るべくして成るということです。昔インドの聖人マハリシがビート ルズに送った言葉「Let it be」がまさにそれを指しています。

変化することが世の中の本質であれば、変化を止めようとしたとたん滅びてしまうでしょう。ブルース・リーは自ら創始したジークンドーにおいて一番重要なも のは「アダプタリティー」、即ち「適応性」であると言っています。武術においても変化に適応できなければ死が待っています。安定性を求めるのが人間ですか ら、生きるということは大変なのかもしれませんね。

2008年 8月21日  巨大なもの

8 月も20日を過ぎるともう終わりという感じですね。小学校のころはだんだん憂鬱になってきた時期ですが、社会人になると全く関係なくなります。むしろ早く 涼しくなって欲しいと思うわけです。だんだん現実的と言うか合理的な思考になってくるわけですが、大人になると子供のころのような純粋な驚きや感動という ものが少なくなります。データベースが増えると同時に刺激にも慣れてくるからでしょう。

小学生の頃私は巨大なものが大好きでした。見たりただ想像したりするだけで楽しかったのです。本や写真でヒマラヤ山脈の山の名前と高さを全部憶えたり、新 宿の超高層ビルの名前と高さを憶え、窓や橋から眺めてはウットリしていました。そして小学校3年のとき我慢できなくなり、友達と一緒に二人で電車に乗って 新宿まで行ってしまったのです。まだ電車に乗って一人で出掛けることができなかったので、電車に詳しい友達を誘ったわけです。ビルの真下に来て上を見上げ た時はもう感動です。これが写真や遠くから眺めていたあの住友ビルかと、ビルの外壁を触りながら感慨にふけりました。もちろん最上階までエレベーターで上 りましたが、下りは階段で55階から歩いて降りたのです。当然親に内緒で行ったので、後でバレて怒られました。

その他、地球の歴史上最大の陸生哺乳類動物であるバルキテリウムや自然現象である巨大竜巻、巨大な観音様、ビッグウェンズデーなどとにかくでかいものが好 きでしたが、最近はそれくらいでは感動しなくなりました。しかし、そんな巨大なもの中でダントツNO1は何と言っても宇宙でしょう。これは永遠に尽きない ネタです。なぜなら無限大で視覚では測りきれない、科学と哲学の領域に踏み込むからでしょう。私が一番好きな星であるベテルギウス(単にデカイから)は太 陽の1000倍、太陽は地球の109倍の直径ということは、ベテルギウスは地球の10万倍の大きさになります。例えるなら地球を一粒の砂糖とした場合、ベ テルギウスは直径100mのボールになるわけです。想像できますか?また地球からの距離が600光年、つまり今地球で観察されてる光は600年前の室町時 代に放たれた光なわけで、もしかしたらもう星自体は爆発してないかもしれないとも言われています。銀河系の直径が100,000光年、こんな銀河が宇宙に は1000億個は存在するというのですからたまりません。

また、数年前にケンタウルス座の天体の中心で、直径4,000kmの月よりも一まわり大きいダイヤモンドの塊が見つかったそうです。約1×10の34乗カ ラットの大きさですからまさしく桁が違います。でも地球から50光年離れたところじゃ手の出しようもありませんね。これだけ桁外れに大きいと目で追ってい る科学では永遠に追いつくことはできないでしょう。ですから古代インドのヴェーダの賢者たちは、外ではなく内側を探究することによって宇宙観を確立したの でしょうね。
「大 宇宙がそうであるように小宇宙もそうである。小宇宙がそうであるように大宇宙もそうである」。人間という小さな構造の中にも大宇宙と同じ構造が組み込まれ ているということです。また「我はそれなり 汝はそれなり それすべてそれなり」というヴェーダの真理を説いた言葉がありますが、これもやはり「私」もそこに落ちてる石ころもすべて「それ」である、「それ」とは宇 宙そのものだということでしょう。

しかし、科学と哲学は決して相反するものではなく、最先端の科学は哲学に行き着くと言われています。頭で論理的に考 えようとすればするほど分からなくなるので、天文科学者は特にトンでる人が多いのでしょう。ヴェーダやその他東洋思想は理屈ではなく実践、経験です。なぜ なら言葉にできないものは主観の域を超えることができないからです。科学は言葉にできないものを言葉にしようとするから無理が生じるのです。宗教で神話や 絵が多用されるのは言葉で正確に表現して伝えることができないと分かっているからです。みかんの味を知らない人に100%正確にその味を伝えることはでき ないでしょう?

でかいものを追い求めるといつか小さいものへの探究に切り替わるんですね。科学は人間の肉体という枠を超えて素粒子 のレベルまで掘り下げていったわけですが、そこはまさしく宇宙だったわけです。大きさに振り回されてるようではまだまだといったところですか。たかだか地 球規模でつまらない大きさを競い合うことはやめましょう。まあ、狭い視野で比較して少しでも大きいものを求めるのが煩悩多き人間なのでしょうが。

2008年 9月14日  赤ちゃんは産まれたての患者さん

9月の半ばになりました。更新スパンが1ヶ月弱とかなり遅めですが、まあ誰も読んでないと思うので問題ないでしょう。実際書くとなると文才がない ので、腰を据えて書かなければならないのです。世の中はブログが主流になっていてその日にあったことや感じたことを日記帳のように毎日書く、というのもあ るのでしょうが私には無理そうです。いつか余裕ができたら挑戦したいですが。

ところで 9月というのは秋の入り口で、夏でもなく冬でもない中途半端な季節で、過ごし易いのですが面白みのない季節です。しかし私や昨年誕生した長男の誕生月でも あり、あまり邪険にもできません。実は息子の産まれた日は私と一日違いであり、また長女はクリスマスの日なのです。これらは偶然の様ですが実はねらってい ます。ねらうと言っても最初からねらったわけではなく、あくまでも出産日の1週間前後の調整です。

お腹の中にいる子供はと母親はコンタクトを常にとっています。産まれる日をお腹の子が教えてくれるという話をテレビなどでもよく聞きますが、逆に母親の気 持ちや希望にも子供は応えてくれるようです。長女の場合はクリスマスプレゼントという意味合いもあったのですが、年内に退院できて正月は家で過ごせるギリ ギリの日だったのです。また、長男には大好きだった祖母の誕生日に産まれくれと頼んだそうです。一つの体を通じて何でも分かっているんですね。母親の体の 健康状態はもちろん、心の健康がいかに大切かということです。ちなみに3才まではお腹の中のことを憶えているというので、たまに長女に聞いてみたのですが 無理でした。話を創るのが好きなのでほとんどあてになりません。


よく問診で過去の怪我などを聞くとほとんどの方がないとお答えになります。しかしその「ない」はここ数年という範囲や、現在の症状には関係ないだろうとい う自己判断によるものが多いのです。人間が一番最初に受ける障害は幼稚園のころ自転車にぶつかったときでもなく、生後数ヶ月にベッドから落ちたときでもあ りません。お母さんのお腹の中にいるときや産道を通って産まれる時です。お母さんが転んだり、体調が悪くてお腹が張ったりすることにより腹圧で赤ちゃんの 頭蓋骨に圧迫、変形が起こります。また、正常な分娩では頭から産まれるわけですが、ヒナ鶏がくちばしで卵の殻を内側からつついて割って産まれるように、頭 の中で一番硬い左側の後頭部を先端にして時計回りに回転しながら産まれてくるのです。このとき赤ちゃんの頭蓋骨は柔軟なので潰れて出てきます。

産まれた後、潰れた頭蓋骨や捻れた背骨が正常に回復することはまずありませんので、それがその子の慢性的な障害とな りその後の人生の病気や体質などを決定します。アメリカでは病院の許可をとって、産後その場でカイロプラクターに赤ちゃんの矯正を依頼する親もいるそうで す。頭蓋骨というのは23個の骨によって成り立っていますが、上の方は膜によってできているので赤ちゃんの時は非常に柔軟性があり矯正すればすぐに戻るの です。大人になるにつれて硬くなってくるので大人は赤ちゃんのようにはいきませんが、健康な人は柔軟性があり治療の前後でも頭の硬さが変わります。頭蓋骨 に関わらず硬くなるということは老化なのです。柔軟性というのは健康の証しでもあるわけです。

ですからどんな症状や痛みも(怪我は別)原因の原因を治療してたどっていくと最後は出産時の外傷にまで到達すること になります(実際は難しいですが)。そういう意味では過去のどんな病気や怪我も現在の状態に関わっていると言えます。ただ今の症状を改善するだけであれば そこまでする必要は無いでしょう。内臓を元気にして体調を整えたり、硬くなった関節を緩めたりすればほとんどの症状は良くなります。特にこれから季節の変 わり目など体調を崩しやすいのでお体に気をつけて下さい。

2008年 10月22日  原因と結果

みなさんは健全な心と体にはいい姿勢が必要だと思いますか?世の中を見ると紳士的な人や成功した人、お坊さんなどみ んな姿勢がいいですよね。逆に、犯罪者や不良などは姿勢が悪いのが多いようです。そういった事実から素行の悪い学生たちを更生するために姿勢を良くするよ う指導したりしています。

しかしここで疑問ですが、姿勢が悪いから心が歪み不良になったのでしょうか?また、姿勢が良いから成熟した人間になったのでしょうか?これはつまり形が心 に作用するという理屈でありますが、最近流行りの小顔矯正や骨盤矯正、さらには美容整形といったもの全てが、「形(モノ)⇒ 精神」という物質を元に精神をみるという現代科学的な思考です。たしかに顔や体のコンプレックスがなくなったとしたら気持ちは明るくなり、人とのつき合い 方も変わるでしょう。

では逆に心が歪んだから姿勢が悪くなったとは考えられないでしょうか?「 精神 ⇒ 形(モノ)」といった宗教色の強い考え方ですが、実際に日常生活でよく見られる現象でもあります。嬉しい時は笑顔になります。悲しいときは暗い顔になりま す。また、風邪ひいて寝てたのに大好きなあの人から電話があっただけで治ってしまったとか。科学的には証明することはできないけれども確かに存在する現象 なのです。姿勢の悪い不良に姿勢を良くして更生させようとすることは、悲しい時に無理矢理笑顔にさせるようなものです。これは苦痛ですよね。「笑う門には 福来る」からといって作り笑いをしてたって疲れるし、そんな笑顔には魅力もないでしょう。

悲しいから笑顔になれないのなら、その悲しい原因を取り除けば自然に笑顔になれます。最も無理なく自然で痛みのない方法です。原因がはっきりわかっている ならば 原因を取り除けばよいのです。つまり姿勢が悪くなったのが荒んだ心が原因ならまずそちらを解決すべきです。骨盤が歪んでいるのが骨盤が原因なら骨盤を矯正 すればいいし、他に原因があるならそれを解決すればいいわけです。もちろん姿勢が悪くなれば神経の流れが悪くなったり内臓を圧迫するので、心や体に悪い影 響であるのも確かです。ですから形を整えるということも補助的に行えば有効な手段になります。

結局はどちらか一方通行ではなく、「精神 ? 形(モノ)」という相互作用によって成り立つといえます。ただより一次的な原因、より原因的な問題を最初に手を付けた方が結果としていいということです。 仏教には八正道というものがあります。八つの正しい行いをすることにより涅槃に至れると理解されていますが、実際は八正道とはあるべき姿を示すもので方法 論ではありません。つまり、まず先に涅槃に達することが重要であり、涅槃に至れば自然と八正道を実践できるのです。悟りに達していない人間が、あれはダメ とかこれもダメと四六時中しばられてたらほとんどの人がリタイヤしてしまうでしょう。

また「ヨーガに立脚して行動せよ」(ヨーガスタ クル カルマーニ)という言葉があります。ヨーガとは真我、即ち宇宙そのものを指しますが、悟りを得てから行動すれば何事も間違いなく自然に行動できるというこ とです。つまり悟りを得た人を模範にしたり真似をするのではなく、まず先に悟りを得てしまいなさいというのです。もっともな話ですがその悟りを得る方法が 分からないから真似してるんじゃないか、とつっこみたくなります。しかしインドには数千年前から聖者に受継がれる方法があります。お釈迦様も昔は滝に打た れたりいろいろやったみたいですが、苦行なんてしても何もわかんねえよ、といって菩提樹の下で悟りを得たわけです。

何事も変えたい部分を変えることが、考えないでできる一番手っ取り早い方法ですが、非常に非合理的であったり非経済的だったりするわけです。それでもみなさんは見た目の形や行動に執着しますか?

2008年 12月2日  人に優しい「同質の原理」 

ついに12月になってしまいました。今年ももう終わりですね。本当にどんどん一年過ぎるのが早くなってきます。この まえテレビでなぜ大人になると時間が経つのが早く感じるのかというのを、学者がいくつかの理由を挙げていました。そのうちの一つに大人は代謝が悪いので実 際の時間が相対的に早く感じるなどと言っておりましたが、まあもっともらしい仮説ではありますがこれは科学的に検証がしようもありませんのでウソともホン トとも言えません。私個人の考えではやるべきことの多さや目的意識の有無が最大の理由だと思っておりますが。

まあそれはどうでもいいとして、12月に入ると街はクリスマス一色に変わりますね。不思議なのは音楽は流行があり次 から次へと新しい曲が出るのに、クリスマスは意外と定番の曲が多いような気がします。山下達郎のクリスマス・イヴやワムのラストクリスマスなど何十年聴い ても意外とみんな飽きないのはなぜでしょう。むしろ喜んで聴いてさえいます。これらの曲はもはや単なるポップスではく行事用音楽、あるいは風物詩となった ようです。ですから古いも新しいもなく、それらを聴くと条件反射でクリスマスを体感するのでしょう。クリスマスに喜びを感じている人はワクワクするし、ク リスマスなんて嫌いだという人は気分悪くなるかもしれません。

これはクリスマスに限らずもっと個人的な、あるいは特定の出来事や思い出などに関係する曲も当てはまると思います。 例えば受験で辛かった日々、失恋したとき、何か大成功をおさめたときなどによく聴いた曲やかかってた曲などは、何十年だってもその曲を聴くだけで一瞬でそ のときに戻れます。匂いと同様、音楽というのは脳にダイレクトに響く強力なエネルギーを持っているのではないでしょうか。世の中にはこの音楽の力を利用し た音楽療法があります。インドのガンダルヴァヴェーダは古代の英知であり、精妙なヒーリングサウンドとして有名です。一般的にも我々は無意識に自分にとっ て心地よい曲やそのときの状態に適した曲を選んで聴いています。これも言わば我々に内在する「大いなる自己」によるヒーリングです。

つまり、人は潜在的に音楽が自己の回復の方法の一つであることを知っているわけです。ところで一つよくある問題です が、悲しいときには明るい曲を聴くべきか、あるいは悲しい曲を聴くべきかという選択です。これは個人々によって違うようですが、どちらも間違っていないよ うです。結局のところ「大いなる自己」に訊くしかないということです。しかし、音楽の体や心への作用を利用する場合に注意すべき点は、現在の状態をバラン スさせる音楽をすぐに聴かないことです。「同質の原理」と言われていますが、例えば鬱状態の人には、最初は悲しい音色の音楽をしばらく聴かせた後に、徐々 に明るい音楽を聴かせるという方法をしないと逆に落ち込んでしまったり、受付けないと言われています。

実際、落ち込んでいるときに明るい曲を聴くと非常に不快ですが、悲しい曲を聴くと抵抗なくスムーズに受入れて同調し 心地よさを感じます。前者は伸ばすと痛いところを無理に伸ばすような治療で、後者は痛くない方へ動かす治療と一緒です。オステオパシーのテクニックは大き く二つに分けるとすると、間接法と直接法に分けられ、さらにそれらの複合があります。直接法は動きの悪い方へ、またはズレを戻すように矯正しますが、間接 法は動きの良い方、痛くない方へ、またはズレを誇張する方向へ矯正します。一般的に整体やカイロプラクティックは直接法です。悲しい音色の音楽をしばらく 聴かせた後に、徐々に明るい音楽を聴かせるという方法は、間接法から直接法への複合であるわけです。オステオパシーの創始者・スティルはこの複合法をよく 使っていたようです。

悲しいときには抵抗せずにとことん落ち込み、とことん泣く。その方が痛くないし回復も早いのです。ブルース・リーの 名言の一つ『Be water』(水になりなさい)、もともとは老子の思想です。水はどんな形にも適応する、逆らわない、柔軟である、これは武術の技に限らず生き方の適応性 にも当てはまることです。頑張り過ぎずに気楽に生きる、これが人生を楽しむ秘訣かも知れませんね。

2008年 12月29日  「構造は機能を支配する?」

ここ数年、治療方法を大きく変えてきました。長くご来院頂いている患者様は随分変わったなと思っていらっしゃるかも しれません。オステオパシーの基本原理の一つに「構造は機能を支配する」というのがあります。また、機械工学者であったガンステッドは工学的な理論によっ て脊柱と骨盤をとらえたカイロプラクティック・テクニックを創始しました。つまり、正しい構造から正しい機能が生まれるということです。理屈で考えれば もっとも科学的で信憑性がありますし、分かりやすい原理ですので私も最初はこの原理を根底に治療を進めてきました。

しかし、これには大きな落とし穴があるということに最近気がつきました。それは人間は機械や工作物ではないというこ とです。機械や建物というのは各部材の力学的構成によって成り立ちますが、その各部材にも構成された構造物にも生命力といった自発的なエネルギーを生み出 すことはありません。つまり構造が全てなのです。ですから構造が機能を支配するという原理がそのまま当てはまります(構造が機能そのものと言えます)。と ころが人間は骨格や筋肉、靭帯、内臓といった単なる構造素材の集合体ではありません。その完成された精妙な構造を自ら動かすことのできる生命力を宿してい るのです。

この生命力は体の機能を回復させたり、逆に低下させることができます。機能とは関節の動きであったり内臓の働きで あったりするわけですが、それらを司るのは自律神経、中枢神経といった神経系統です。そしてその神経機能を維持するのに重要な働きをするのが脳脊髄液で す。脳脊髄液は第一次呼吸メカニズムという頭蓋骨と仙骨のポンプ運動によって産生と循環が行われています。ではその第一次呼吸メカニズムは何によって動か されているのか?その発生原動力については諸説ありますが、じゃあその原動力は何によって生まれるのということになり、どれも結果的には根本的な説明に なってはいません。最後は命という説明不可能な神の領域に到達せざる得ないのです。

機能は正しい構造体であった方がより発揮できるのは間違いないでしょうが、逆に内臓機能の低下によって筋肉に緊張を 起こし構造を不安定にさせてしまうこともあるのです。ということは構造は機能を支配し、機能は構造を支配するということになりますので、今では「構造と機 能は相互関係にある」となっています。この原理から言えば必ず骨格を矯正した上で内臓などの機能問題を治療しなければならないということはないわけです。 むしろ体の弱った患者さんの場合は補正でできた歪みをむやみにとって真直ぐにしてしまうと、機能が追いつかずかえって症状が悪化します。これは好転反応と は言えないでしょう。

ですから最近はほとんどまず内臓や四肢、あるいは頭蓋骨などを操作することによって機能を回復させ、骨格を矯正でき る状態にもっていき、状況によって矯正したりしなかったりしています。実際、症状というのは体調の不良、すなわち機能低下が原因であり、骨格の歪みが直接 関係していることはほとんどありません。骨盤が捻れていても、背骨が曲がっていても痛くないときは痛くないし、元気な時は元気なのです。勉強している人な ら分かると思いますが、骨盤が歪んでないときなどほとんどないでしょう。背骨をボキボキ矯正しても明日もまたボキボキ鳴ります。これは一体何を意味してい るのでしょうか?

今年も残すところあと2日になりました。今日で本年の施術は終了です。一月の初めには長く感じたこの一年が、経ってみればついこの前のことです。どれだけ 自分の目標、成長が遂げられたを考えてみました。大きな変化というのは無かったような気がしますが、ただ今後この仕事を続けていく上で礎となった一年だっ たと思います。もちろん治療の質を高めていくことは義務であり、今年の初めと比べたらより良い治療を提供させていただいていると思っています。来年もより 一層の努力をいたしますので宜しくお願い致します。新年は5日からとなります。それでは皆様よいお年をお迎え下さい。

2009年 1月27日   素晴らしき恐怖

明けましておめでとうございますと言おうと思いましたが、もうすでに1ヶ月近く経ってますね。もう一年の十二分の一が終わろうとしている・・・怖 いですね。そして、もうすぐ花粉の季節もやってきます。怖いですね。まったく世の中は怖いことだらけです。実際、人生とは恐怖の連続であり幸せはその隙間 に点在しているに過ぎないと言っても過言ではないのではないでしょうか?しかし、恐怖とは人間に限らず他の全ての動物が持つ自己防衛機能なのです。

もし恐怖という感覚がなかったらどうなるでしょうか?おそらくあっという間に死んでしまうでしょう。動物は生まれ持った恐怖によって本能的に危険を回避し ています。しかし、人間はどうでしょうか。赤ん坊には大人が持つ恐怖という概念がありません。 高いところも怖くありませんから警戒することなく足を踏み外しますし、刃物でも火でも平気で手を出します。ほとんどが後天的に学習することによって危険を 恐怖という感覚で学ぶのです。当然オバケも怖いものという刷り込みによって、見えない対象に対して恐怖を結びつけるわけです。

実際、我家の長男も0才の時に階段の一番上から落ち、たまたま傷一つなく無事でしたが一つ間違えば死んでいたかもしれません。しかし、今でも平気で階段を 上ったり降りようとしていますので、まだまだ学習が足りないようですが、子供には危険だからといって全て、家の中の危険を取り払ってしまうというのは良く ないようです。危険回避能力というものを養わせなければならないからです。もちろん取り返しのつかないような危険には十分注意しなければなりませんが。

痛みというのも恐怖に結びつきますが、これも人間の健康、安全を維持するために働く重要な機能なわけです。HPにも書いてありますが痛みは健康な証しです ので、痛みを感じないのはむしろ不健康であり危険なのです(どこにも問題がなければいいのですが、そんな人はまずいません)。これらは物理的、肉体的に働 く危険要素についてですが、精神面を抑制する恐怖もあります。例えば、何かチャレンジする前からあらかじめこれは難しいとか、練習不足だからとか、みんな できないからとか、あるいは本気でやるようなことではないなど言い訳を用意しておくのです。それによってもし失敗した時に自分の心の衝撃を緩和するわけで す。そのような衝撃の恐怖から心の安定を保つためにも自我の防禦機能は働いています。これらは悪いということではなく適度に使われることによって心と体の 安定が得られるということです。しかしこの機能が過剰に働くと「言い訳人間」になってしまうので気をつけなければなりませんね。

また、法律や規則というものも罰則という恐怖によって人の心を抑制し、社会の安全の均衡を保っています。しかし、日本の法律は甘過ぎます。中東諸国のよう なある種の残虐性と厳しさが必要なのではないでしょうか?日本は被告人の人権を尊重し過ぎています。ある人々は刑事裁判は被害者のためにあるのではなく、 秩序の回復や犯罪防止といった公共的な役割を果たすためにあるなどと言っておりますが、ではあなたが自分の家族が殺されたら本当にそう思えるのかと問いた い。人間を恐怖によってコントロールするということはできれば避けたいし、そうしないと抑制できないということは情けないことです。ほとんどの多くの事件 は一時的な感情をコントロールできないことと、想像力の欠如から起きているのでしょう。残念なことに残虐性や生々しさといった恐怖を与えなければならない 人がたくさんいるということです。

ところで恐怖には前述したような必要な恐怖だではなく、不必要な恐怖というものがあります。本当は存在しないものなのに、それを恐れることによって自分本 来の力が発揮できないということは少なくありません。例えば武術で一番重要なことは「技術」ではなく「度胸」であるとテッド・ウォン師父はおっしゃってい ます。また、恐怖とは地面に置いた幅20センチの板の上を歩くことは誰でも簡単にできるけれど、同じ板を地上100mの高さで渡ることは大変難しい、これ が恐怖であるとイノサント師父はおっしゃっています。全く同じことを不必要なストレスをかけることによってできなくしてしまうわけですが、まだ何も起きて いないことを勝手に想像して自分の能力を制限してしまっているのです。

人前で話すことが苦手な上がり症な人も同じです。人はあなたが思っているほどあなたのことを見ていないし関心もありません。それなのに必要以上に自分をよ く見せようと自意識過剰になっているのです。むしろオドオドしたりしてるほうがよっぽど恥ずかしいかもしれません。このような不必要な恐怖が生まれる要因 はただ一つ、自信の欠如です。そしてそれを克服する唯一の方法は自分が納得できるだけの十分な訓練や練習を積むことです。豊富な練習は自信を生み、そして その自信は存在しないものを恐れさせるという無駄なことをさせないのです。世の中人前で堂々と話したり演じたりしている人がたくさんいらっしゃいますが、 そういう方も上がらないわけではなくその陰には相当の練習と努力が隠されているということです。

結果的に人を努力に導くわけですから不必要な恐怖も人生において必要なストレスだと言えますね。なんのストレスもない生活というのは良いようですが、人間を弱くしてしまうでしょう。無菌状態で育つと免疫力が無くてすぐ病気になってしまうように。


2009年 2月24日  ノスタルジー不変の法則

みなさんは古いものと新しいものどちらに興味がありますか?ものによるのでどちらとも言い難いと思いますが、マーケ ティング的にみると「古いもの」の方が受けが良いそうです。古いと言っても汚いとか壊れているとかそのような否定的なイメージではなく、懐古的、アン ティークといった思考を指すものです。『ノスタルジー不変の法則』というものをご存知でしょうか?

過去に経験したものなどをテーマにした店舗やアトラクションなどを企画すると失敗がないのです。しかし、逆に未来的なものをテーマにすると最初は目新しい ので人目を引くのですが、飽きられやすいのであまり長続きはしないそうです。やはり懐かしいものは誰もが安心し落ち着くのでしょう。当院はガラス張りの近 代的な建物になっておりますが、何を隠そう実は私はバリバリの懐古主義者です。子供のころは巨大なものが好きでしたが今は古いものが大好きです。オヤジに なったからだろと言われればそれまでですが、そういうわけでもありません。

80年代や70年代の音楽、アイドル、車、電化製品、ドラマ、ファッション、ダンスなどこよなく愛していますが、さらに経験したことのない昭和30年代や 大正時代にも浸れます。脳は宇宙のホログラムであると言われ、全宇宙の過去の歴史や出来事が脳にはインプットされているということから過去のものは全て安 堵の対象になるのでしょう。最近そういった懐かしいものを商品化したりイベントを企画したりすることが増えているようです。特に昔のドラマをDVD化した り昔のヒット曲をアルバムにしたりしていますが、それらは30〜40代を対象にしているようです。この年代は今一番精神的に疲れていて安らぎを求めている かもしれませんね。

ところで「思い出は全て美しい 」という言葉があります。 どんな失敗や恥ずかしい過去でも今となってはいい思い出になるものです。だからこそノスタルジー不変の法則は成り立つのでしょうが、それは「今」だから美 しく感じるわけです。80年代に80年代の音楽を聴いても全く懐かしくないし、失敗したその時は当然全くいい気分ではないでしょう。過去には決して戻れな いという絶対法則を前にして我々は過去の擬似体験をして喜んでいるのです。それを無理矢理に過去を現実化させてしまうとどうなるか?意外とつまらないもの なってしまう気がします。建物でも車でも完全に昔の形を再現したとしても、そこには「時間」が刻まれていないので感動が生まれないでしょう。台場一丁目商 店街や横浜のラーメン博物館などどれも素晴らしく再現しておりますが、やはり作り物であるから冷めてしまうのです。一夜限りのジュリアナ東京というイベン トがあったそうですが、みんな昔に戻れて楽しめたというより過去と現実のギャップにガッカリしたのではないでしょうか。

やはり古いものというのは現実化してはいけないのです。レプリカではなく歴史が刻まれたそのものを、あるいは当時経験した時間を心の中で観たり感じたりす るのが一番です。アンティーク商品が高価なのは物そのものの機能や完成度ではなく、そこに刻まれた歴史や時間といった目に見えない価値があるからでしょ う。しかし、古いものにただ酔っているだけでは人間は進歩しません。歴史を大切にする一方で探究することを忘れてはいけないわけです。昔の言い伝えで良い とされてきたことでも、科学が発達した現代では良くなかったり、あるいは全く意味がなかったりすることもあります。親の意見と茄子の花は千に一つも仇はな いとは言いますが、決してそうとも言えません。

医学においても同様ですが、確かに昔の技術でも優れたものはたくさんあると思いますが、科学が発達していない当時ではあくまでも経験的なレベルで作られた ものです。それらが全く外れではないにしろ、より細かくより詳しくみることのできる今開発された技術に目を向けなければ、治療家として怠惰であると言わざ る得ません。また「昨年に不作なし」とか「黄金時代があったためしがない」という言葉がありますが、これらは人は過去を崇拝し過ぎる傾向があることを示し ています。去年はもっとよく穫れたとか、昔は良かったなどといってもその昔も同じことを言っていたのです。もちろん現代ではなし得ないことを、意識のレベ ルの高い昔の人だからこそできた高度な技術というものもあるわけで、必ずしも現代の技術が一番優れているとも言い切れないでしょう。要は古きを温め、新し きを知るということですね。


2009年 3月28日  スタイル(流派)の意義

 
カイロプラクティックについては当HPやその他のHPなどで詳しく書かれていますので、ある程度の知 識や認識を皆さん持たれていると思います。実際細かく分けると100種類以上のスタイルがあり様々な理論や技術があるわけですが、正直これらを全てマス ターすることは難しいことですし、ましてやその他の手技療法にまで手を出す余裕はありません。しかし、世の中には何十、何百という手技を勉強されている先 生がたくさんいらっしゃるようです。昔から何かを学ぶのに一つのことを極めた方が、いろんなものに手を出して中途半端になるより物になると言われている節 があります。実際のところはどうでしょうか?

ここでテーマになるのが「流派」「スタイル」といった形式や型の存在意義と有用性です。カイロプラクティックに限らず治療法全般に関して言えば鍼、灸、指 圧や操体法、PNFなどそれぞれが一つの治療法のスタイルであり、カイロプラクティック自体も同様に一つのスタイルに過ぎません。カイロプラクティックと いう一つのスタイルがさらに何百というスタイルに分派していくわけです。武道も同様で剣術があれば空手などの打撃術もあれば柔道などの組技もあります。紀 元前600年以上前にあった原始的な格闘技はパンクラチオンと呼ばれ、今でいう総合格闘技でした。それらがボクシングやレスリングなどに細分化されていっ たわけです。日本の古武術も武器や打撃、関節技、投げなどを含めた総合武術でした。

他にも茶道や宗教、舞踊、絵画、建築、音楽、ありとあらゆる全てのもにはスタイルが存在しています。 逆にスタイルの存在しないものは存在し得ないと言えます。たとえそれが個人レベルであろうとも「生き方」はその人のスタイルです。ではなぜスタイルは存在 するのでしょうか?それは我々が住む陰陽の二元性の世界では具象化されなければ表現できないし、また価値も無いからです。具象化するということは有形化す るということで、形が生まれればそれは即ちスタイルが存在するということになります。しかし、ブルース・リーはスタイルとは仮説に過ぎないと言いいまし た。一流派はそれを創った人の、いわば研究の過程である、よってそのスタイルを盲目的に信仰していては永遠に真実に辿り着くことはできないということで す。

治療で言えば全てに対応できる状況とは、仮説から解放され応用自在になるということでしょう。この段階では形や型式というものには捕われない、禅でいう 「無」の状態。しかしこれは何も無いということではないのです。全てを創出する純粋な<場>を意味しています。このことは様々な分野で様々な表現をされて います。量子力学でいう「統一場」、化学でいう「最小励起状態」、道教でいう「太極」と同じ次元のことを指しています。

この純粋な<場>は木の樹液に例えられます。一本の木はたくさんの葉や枝、あるいは花などから成っていますが、この一つ一つの葉や花などはこの樹液の一つ の表現に過ぎません。その葉や花は表面的な樹液の形の現れでありこれは一つのスタイルです。そこに執着してしまうと樹液という真実は見えなくなってしまう のです。我々が花や葉の表面的な価値に留まらず、樹液という純粋な<場>に達せたとき、スタイルを超えたあらゆるものに対する適応性を持つことができま す。そこには一見何も無いかのように見えます。しかし、無法とは、即ち「秩序ある自由」であり、最も洗練された有法なのです。
 このことをブルース・リーはこう言っています。

 無法を以って有法と為し、無限を以って有限と為す

昔から武術の修行は「守・破・離」という三段階で行われています。つまり、一つのことを極めるというのは守の段階のことで あり、それだけを永久にやり続けなければならないということではありません。そして色々なものを研究するというのは破の段階のことであり、ベースが出来上 がったところでそこに肉付けしたり削ったりしていくわけです。警鐘されるのはベースができていないのにいきなり破の段階の修行をしようとしている場合のこ となのです。また、しっかりとしたベースができるとその他のものを習得するのも早いのですし、見ただけである程度理解できるようになります。

さらに離の段階では独自性、オリジナルの表現をしなければなりません。オリジナルというと一つのスタイルを確立するように思えます。しかし、オリジナルと はorigin、即ち起源のことです。我々は宇宙という一つの起源に帰ることこそがオリジナルな表現であるのです。よって、オリジナルであるということは 最も純粋な形であり、宇宙という「統一性の中の多様性」を表していると言えるのです。創造することについて、偉大なる建築家であるアントニオ・ガウディが 語った言葉があります。

「神の創造は継続し、創造主は被造物(人間)を利用する。大自然の法則に従い作品を作ろうと、その法則を探究するものは、創造主と協力する。しかし、模倣者は協力しない。それ故、独創性(オリジナリティ)とは、起源(オリジン)に戻ることである。」

つまり、オリジナルを表現するということは 「仮説的なスタイル」ではなく、絶対不変の自然法則を表す「純粋なスタイル」であるといえます。よくジークンドーの修行者で勘違いをされるのは、ジークン ドーはコンセプトであり、色々な要素、即ち、色々なテクニックを取入れて自分のスタイルを築くことであると思っていることです。これは結局「仮説的なスタ イル」であり、ブルース・リーの否定したスタイルなのです。しかし、晩年ブルース・リーは自分のジークンドーをスタイルであると言っていますが、これは ジークンドーが「純粋なスタイル」と呼べるほど純粋化したことを意味しています。

自然法則が単純で直接的であるように、武術でも治療テクニックでもシンプルなものほど精密性を要しますが、最も効果的でかつ状況ごとに千変万化するので す。沢山のテクニックを覚えて状況ごとに使うのは限りがありますが、一つの技術を変化させて応用するのは無限です。優れた武術家や治療家ほど手数が少ない し単純な技術を使います。カイロプラクティックには上部頸椎カイロ(ターグル・リコイル)というスタイルがありますが、まさしく第一頸椎、もしくは第二頸 椎しか矯正しないのですが、最小限の労力で最大の効果を出すというカイロプラクティックの哲学を象徴したようなテクニックです。これだけで全て治るという のはもちろん難しいでしょうが、こういうシンプルなテクニックほど術者の技量が問われるわけです。同じテクニックを行っても達人が行えば想像もできない効 果が出るかもしれません。

結局、スタイルというのは人間にとって必要不可欠なものであるのですが、そこに捕われてしまうと本質が見えなくなって成長は止まり、流派争いなど不毛な労 力を費やすのです。宗教争いなどはいかに自分たちが宗教を理解していないかを証明しているようなものです。生き方にこだわりを持って生きるということは重 要ですが、あまり固執し過ぎて自分を苦しめないように気をつけないといけませんね。スタイルは効率的に作業するために利用する手段であって、それに縛られ てしまっては本末転倒だということです。


2009年 5月1日  鏡の国のミルクの味は?

いよいよゴールデンウィークが本番になりますね。すでにもう真最中の方もいらっしゃると思いますが、私は今年もま たいつもと変わらぬ日々を送ることでしょう。長い休みをとると再びエンジンをかけるのに大変なのでその方がいいのだと自分に言いきかせています。ところで 今までコラムを書いても題名をつけていませんでした。最初はあまり書くつもりがなかったので良かったのですが、ある程度の長さの文章になると題名がないと 分かりづらいのでこれからは入れていきたいと思います。一応、以前の分も入れておきました。

患者さんに限らず多くの皆さんが、骨盤や身体のバランス、顔のバランスなどを気にされいます。一般に世の中では左右対称であることが良いことである、美し いことであると認識されています。もちろん大きな間違いではないのでしょうが、果たして本当にそうでしょうか?上下、前後は上半身と下半身、腹と背中、あ るいは空と大地などのようにそれぞれ形態的にも機能的にも違うもので対称的ではありません。しかし、左右については人間の身体をはじめ、ほとんどのものが 対称的にできています。ですからどうしても左右については完全に対称的であることが良いことであると思いがちになります。

でも左右についても陰陽理論からすれば全く違う機能を有していますし、一見、左右対称に見えるものでも全く違うものがあります。例えば、身体の中は全く左 右対称ではありません。心臓は左寄りにあるし、肝臓は右にあります。左右二つある肺も心臓があるために形は違います。また、左脳と右脳では違う働きをして います。そのためかよく人の顔は右は対外的につくられた顔であり、左側は本当の自分を表していると言われています。実際、モデルや芸能人の写真は右側を前 にして写していることが多いです。さらに、NLP(神経言語プログラミング)とよばれるコミュニケーション心理学では右上、左下など視線の位置によって、 見たことがあるものを想像しているか、見たこともないものを思い描いているかなどその人が今どの感覚を使っているのかが分かるといいます。また、人はもの を視るとき左から視るのです。文章を読む時も左から読みますし、大きなものや景色を観る場合も左から見ています。これは機能が左右対称でないことを意味し ています。

このように形態も機能も左右では全く違ってくるのです。また不思議なことにデザイン的には見た目に美しいと思えるのは、シンメトリ(対称)であるよりアン シンメトリ(非対称)なものの方が多いということです。一般的に人間の顔や象徴性のあるもの、厳格性のあるものなどはシンメトリな方が良いと言われていま す。建物で言えば国会議事堂などはシンメトリである故に威厳を感じます。一方、店舗や住宅などではシンメトリに造ってしまうと動きのないつまらないものに なってしまいます。あえてアンシンメトリにすることによって心のバランスを崩すと緊張感が生まれ、それが「おもしろい」とか「かっこいい」といった感覚を 起こすわけです。ですからデザインを重視する製品はほとんどがアンシンメトリになっています。

前回紹介した建築家アントニオ・ガウディの、知らない人はいない代表作であるサグラダ・ファミリア聖堂は一見シンメトリです。しかし、「御誕生の正面」の 左右の扉の大きさが違うのです。この相違が建物上部に影響し全体的にもシンメトリを微妙に崩しているのです。聖堂といえば象徴的で神聖さを求めるものなの に、なぜガウディがこのようなことをしたかははっきりは分かりませんが、それは彼が神の建築家であり神が創造した被造物と同様に造ったからでしょう。まさ しく神の被造物である人間の体は先ほど述べたようにシンメトリではありませんが、シンメトリでないことによって人間としての機能を果たします。

ところで、シンメトリの顔は確かに美しいでしょうが魅力的かというとそうとも言えません。女優や俳優にしても少しクセのある顔の方が魅力を感じることが多 いですが、その場合、口が片側で上がっていたり目の大きさが違っていたりアンシンメトリが強調されています。頭蓋骨の歪みがあるのは間違いないでしょうか ら決して健康的とは言えませんが、僅かな左右差であれば問題ない場合もあります。

実際、骨自体の形というのは完全なシンメトリではないのです。関節の異常によるものではなく骨自体の形状が左右非対称であれば問題ないですし、それを治し て見た目に完全な左右対称にしようとすることは無理です。背骨も一見歪んでいるように見えても背骨自体は真直ぐのこともあります。背骨の関節がズレている わけではなく、背骨のうしろに飛び出てる突起そのものが左右に曲がっているので歪んで見えてしまうのです。それを歪んでいると思って矯正したら大変なこと になってしまいます。

このように自然界において左右とは単なる反転ではなく、右と左は違う機能を果たしているので入れ替えることはできませんし、完全なシンメトリでもないので す。非常に興味深い話ですが、『鏡の国のアリス』という話の中で鏡に映ったミルクを見て「鏡の国のミルクも同じ味がするのかしら?」というところがありま す。みなさん同じ味がすると思いますか?ただミルクだけを見ると一見全く同じように見えます。ではこのミルクを顕微鏡で見ていくとどうでしょうか。ミルク を構成する物質の分子はシンメトリではないのです。ですから鏡に映ったミルクの分子は左右逆転して見えるはずです。分子は左右逆転したら全く違う物質に なってしまうでしょう。そうなると鏡の国のミルクは全く違う物質となってしまうわけで、想像もつかない味となるはずです。鏡に映った自分の顔と三面鏡で反 転して写った顔(他人から見た自分の顔)を見比べるても別人に見えますよね。もし全てが左右反転した自分が存在したとしたら・・・。


2009年 6月15日  科学的なものは存在しない?

今回のテーマはあまりにも大きすぎてコラムにまとめるには重すぎると思ったのですが、あえて「考え る」「哲学する」ということの面白さや重要さについて少しでも気づいて頂けたらと思い書くことにしました。哲学というと何やらとっつきにくいイメージがあ りますが、決してそうではなく実は生活に密着したものです。別に人生観や抽象的な概念を掘り下げていくことだけを指すわけではありません。哲学の基本は 「なぜだろう」から発するものであり、疑問と探究心から生まれるものです。考えることは即ち、哲学することなわけです。例えば、数について探究し考え続け たことにより数学という学問が生まれ、様々な力学的な現象について探究した結果、物理学という学問に分化していったわけであり、一般的に皆さんがイメージ する人生哲学などは様々な分野に別れていった哲学のほんの一部分に過ぎないのです。今回は科学に関する哲学、即ち科学哲学についてですが、カイロプラク ティックなどの手技に絡めて考えたいと思います。

よく「○○療法は科学的な方法です」とか「△△の効果は科学的に立証されています」という言葉が聞 かれます。悪徳商法などでもよく使われていますが、科学的という言葉に人は弱いようです。カイロプラクティックの三大要素である「哲学」「科学」「芸術」 にも科学という言葉があります。みなさんは科学とは何だと思いますか?おそらくほとんどの方が「間違っていないもの」、「実験と検証によって確かめられた もの」であると思われているのではないでしょうか?一見正しそうですが厳密にいうとそうとはいえません。実は非常におもしろいサイトがあり、考えることが 好きな方や探究心の旺盛な人であれば誰でもおもしろく読めると思います。
※「哲学的な何か、あと科学とか」http://www.h5.dion.ne.jp/ ̄terun/index.html

科学的という言葉があいまいに乱用されている世の中ですが、その一つに整体とカイロの違いで「整体は経験的なものであり科学的ではないが、カイロプラク ティックは医学的に裏付けられていて科学的である」というような説明がよくなされています。私はカイロプラクターでありカイロプラクティックを信仰してお りますがこれには納得しておりません。もしそうだというのならばまじない師や呪術師と発言とそう変わりありません。これは結局、科学というものの定義の認 識の違いから産まれた間違いなのです。

科学についての説明は先ほどのおすすめサイトやその他いろいろありますので、専門外の私が説明するまでもないのですが、最低限話を進めていくため簡単に科学哲学史について説明させていただきます。最もみなさんが科学的と思われる1600年頃の帰納主義は イギリスのベーコンによって提唱されました。これは多くの観測データを集めてそこから一般的な法則を導く方法で、例えばたくさんのカラスを観察した結果、 カラスは黒いというデータが集まれば、「カラスとは黒い鳥である」という法則が導きだされます。つまり、観察データや検証結果が多ければ多いほど信憑性が あり科学として正当化されるわけです。

しかし、これには大問題があり都合のいいデータばかり集めても正当化できてしまうということです。例えば、誰かがうわさをするとくしゃみが出るという俗説 ですら、実際に検証してそういった観測データをいくつか集めれば「科学的に正当な理論」になってしまうのです。これでは怪しい新興宗教も科学の仲間入りし てしまいます。そこで本物の科学とニセモノの科学を区別する「境界線」を引くことになりました。

そこで哲学研究グループのウィーン学団の登場です。 論理実証主義を提唱し科学界にニセモノの掃除にやってきました。論理実証主義とは簡単に言うと、どんな複雑な理論でも いくつかの小さな命題(○○は××であるといったもの)の集まりであるので、そのうち一つでも実験などによって実証されていない部分(命題)があれば、そ れだけでもうその理論は科学としては認められない手厳しいものでした。その結果、全ての科学は排除され本物の科学は何一つ残らなくなってしまったのです。 この論理実証主義にかかると相対性理論ですらニセモノ科学になってしまい、本物の科学などというものは存在しえないということになるのです。

ここで論理実証主義の問題となるのは厳密すぎるということであり、「現実にはいくら観察データを集めても、全ての場合について言えるわけではない」という ことです。例えば、先ほどの例の「黒いカラス」を100億羽見つけたとしても「すべてのカラスは黒い」ということの証明にはならなりません。なぜなら 100億1羽目に白いカラスが見つかるかもしれないからです。にも関わらず、科学理論とは「すべて」についての理論なのです。この矛盾した事実から「科学 は自らの定義によって科学になり得ない 」ということになるのです!

そこにカール・ポパーが現れ「反証主義」という逆もまた真なり的な科学思想を提示しました。反証とは簡単に 言えば観察や実験で間違っている証拠を提示することです。また先ほどの「黒いカラス」の例を出せば、「白いカラス」を一匹でも見つければ「すべてのカラス は黒い」という理論が間違っていることを証明することができるわけです。つまり何が言えるかというと、人間は観察によって科学理論の正当性を証明すること は原理的に不可能だけれど、誤りであることを証明することは唯一可能であるということなのです。

で、それがどうしたのとお思いでしょう。たしかにいくら反証してもそれだけでは意味がありません。ではこの「反証主義」がなぜ優れているかと言うと、「正 当な科学理論が満たすべき基準とは、反証による検証がきちんと行える」と考えられたことです。例えば、「この世界は神が作った」という理論は反証のしよう がありませんので科学とは言えません。なぜなら「神」を検証しようがないからです。つまり「反証可能性のない理論は科学とは言えない、逆に反証可能性を持 つものが科学である」と定義されたのです。では、「黒いネコを見た日は仕事で必ず契約がとれる」というのは科学でしょうか?これは実際にやってみて反証で きる可能性があるので科学的であると言えます.しかし、実際反証されてしまった時点で科学とは言えなくなります。要するに科学とは「反証される可能性はあ るが今のところはまだ反証されていない仮説」ということであり、結局のところ「反証主義」も妥協案に過ぎないのです。

しかし、間違っていても間違いであると確認できない理論より、間違いだと確認できる理論の方がまだ優れています。一般的に「科学」とは「間違っていないも の」というイメージが強いが、実際には「間違っていると指摘されるリスクを背負っているかどうか」が科学であることの前提条件なのです。

ところが「反証主義」にも問題点があったのです。反証するということは一見簡単なように見えますが、実はそんな単純なものではありません。「科学理論と は、たくさんの前提条件のもとで、成り立っている」わけですから理論と異なる結果が観察されたからといって、単純に反証できないのです。前提条件とは、気 温、湿度、風量、材質、実験器具の性能、さらには観察者の目や耳、健康状態、精神状態など全てが一致していなければならないのです。

ポパーは 、結局、何らかの科学理論を構築するためには、どこかで疑いを止める地点を決断しなければならない」と考えたのです。人間はどの観察や理論が正しいかを知 ることはできない、どこかで割り切って「これで正しいんだ」と思い込まなければ科学理論は成り立たないと結論を出したのです。科学的な科学などは存在しな いのであり、学校で習った物理も全て今では反証されてしまっているので本当の科学ではないわけです。

以上、ざっと「哲学的な何か、あと科学とか」のサイトから引用させていただきましたが、治療の世界はまさしくトンデモ科学の宝庫であることが分かります。 カイロプラクティックには「イネイトインテリジェンス」という概念があります。日本語に訳すと「先天的知性」となり自然治癒力と似た意味なのですが、カイ ロプラクティックのアジャスト(矯正)によって「イネイトインテリジェンス」を全身に行き渡らせることによって健康になれるというのが基本概念です。しか し、この「イネイトインテリジェンス」は検証のしようがありません。即ち、反証可能性がないのでこの時点でカイロプラクティックは科学とは言えないので す。なのにカイロプラクティックは整体より科学的な方法であるとか、オステオパシーはカイロプラクティックより優れているというのは「目糞が鼻糞を笑う」 なのです。

ただここまで書きますと、たしかに細かく考えればその通りだけれども、100億1羽めに白いカラスが発見されたとしても実際には「カラスは黒い」で問題な いじゃないかと多くの方は思うでしょう。腰椎5番を矯正すれば多くの腰痛が改善するのであれば、それを利用すればいいと思います。なんだかんだ言っても帰 納主義的な古典科学が日常生活には十分役立ちます。相対性理論よりもニュートン力学の方が実生活には役立つことが多いでしょう。

つまり、日常生活を普通に送るのに哲学なんてものは別に必要ありません。哲学でお腹は満たされませんし、生活は潤いません。しかし、擬似科学をあまり信じ 過ぎることによって可能性の限界を作ってしまう可能性はあるわけです。実際、治療は理論通りいかないことの方が多いわけですが、マニュアルに頼り過ぎると 混乱してしまうことになります。また、一見、非現実的な治療法でももしかしたらある状況で効果を発揮することがあるかもしれません。

理屈っぽいと思われがちですが、疑いをもってなぜだろうという探究心を持つこと、哲学することはその人の枠を常に拡げていけるきっかけとなるはずです。理 屈っぽいと否定して考えることを止めてしまった人は、素晴らしい可能性の発見を放棄してしまっているようなものです。「考える」という行為は人間に与えら れた特権であり、考えることによって人類は発展してきたのです。ですから哲学する素晴らしさをあらためて知って頂きたいと思います。


2009年 8月12日  人生はドミノ倒しの如く

久しぶりに一人で数日を過ごしております。一人になったらいろいろとやろうと思っていたことがたく さんあったにもかかわらず、いざなってみると時間があるからといって関係ないことばかりやってしまいます。みなさんもよくあることだと思いますが、引き出 しの整理中に出てきたものをたどって違うことを始めてしまったり、あるいはあんまりやりたくないことを始めるときに見つけたホコリから掃除が始まってし まったりとか。こういうことは時間にゆとりがあるときによくあることで、忙しいときはそんなことをしている暇はありません。

子供がいるときは、いなかったらどんなに事が進むだろうと思っているわけですが、結局はやれる人は忙しくても忙しくなくてもできる人だということですね。むしろ、忙しいときほど仕事は進むのかもしれません。高校時代の倫理の先生がこんな話をしていました。

「試験が近いから勉強しなければならないと君たちは分かっている。しかし、1週間前になっても君たちはやらない。ところが、2日前、1日前となるとさすが にやり出す。つまり、1週間前は勉強をしなければならないということを本当は分かってはいなかったんだ。『知ることはできること』という陽明学の基本的な 思想があるが、2日前になるとやらなければどうなるかがリアルに想像できるようになる。でも1週間前はまだ想像できていなかったということだ。想像できた 時初めてやらなければならない理由を理解し、そして行動ができるようになる。だからよく『頭ではわかってるんだけどねえ、でもなかなかやれないんだよね』 という人がいるが、それは結局わかってないんだよ。」

たしかに日常生活はそういうことの連続な気がします。家の中で子供がもしかして怪我する可能性がありそうなところを直しておこうと思うのですが、なかなか 忙しくて後回しになったりするのも、多分大丈夫だろうとか、すぐにそんなことは起きないだろうとすぐにはやらない言い訳するのも、本当にその危険さを理解 していない、即ち想像力が欠如しているということになります。

基本的に人は想像したことはできるといいますが、実際、想像力の富んだ人たちは様々な能力を発揮しています。マジシャンは想像した現象やマジックはどんな ものでも実現可能だと言っており、想像した段階でほぼできたようなものだそうです。絶対あり得ないと思われるようなスーパーマジックは人間の想像力の賜物 だということです。また、成功者のほとんどは自分の夢への道筋を、時系列で書き表しそれを実際にクリアしながら現実化させているようです。

ところで何かにつまづいたとき、もしあのときあっちを選んでいたらなあとか、もっとああしてればよかったなあなどと思うことがよくあります。あのときあの 人と結婚してたらこんな生活じゃなかったに違いないとか、もっと勉強していい大学に行って一流企業に勤めてればなあと思う方は少なくないと思います。さっ きの話では試験1週間前に戻れたらなあ・・・。

しかし、私は「もし〜だったらば」というのは存在しないと考えています。なぜなら全ては原因と結果の連鎖だからです。何か原因によって起きた結果は、次の 結果の原因となります。つまり結果と原因というのはドミノ倒しみたいなもので、倒されたドミノは次のドミノを倒す動力、すなわち原因となるわけです。

仮に7年前のあのときに戻ったとしましょう。しかし戻ればあなたの能力や趣向、気持ち、モチベーションなども全てあのときに戻ります。あのときあなたが 「それ」を選んだのは偶然やたまたまではなく、あのときのあなたのスペックが元になっています。つまりあなたはあれ以上でも以下でもない「それ」しか選ぶ ことはできなかったわけであり、過去の選択を後悔することは不可能なことなのです。

一つのドミノが原因と結果の二面性をもつように、今現在のあなたは一つ前の原因の結果であり在るべくして在るあなたなのです。そして今のあなたがまた原因 となり明日のあなたを決定していくわけです。長い期間で考えてしまうから違う選択ができたかのように錯覚してしまいますが、長い時系列を原因と結果の最小 節に区切ってさかのぼっていけば、あなたが過去にした選択は必然でありそれ以外の選択はあり得なかったわけで、「もし〜だったらば」というのは存在しない ということが分かります。

だいぶ前に「世にも奇妙な物語 」という番組のあるストーリーで、生活に疲れたサラリーマンが道で会った占い師に、過去に戻ってもう一つの人生を見せてもらうという話がありました。その 話では過去に戻るとたしかに今とは違う新鮮な日々が続いていましたが、やがて今以上に悪い生活に変化していき、結果的に実際の人生の方が幸せだったので す。つまり、その話では「隣の芝生は青く見える」と同じように、選択しなかった未知の人生というのは魅力的に見えるということです。何を選んだとしても、 あるいは最高のものを選んだとしても実際には良いことも悪いこともあるのです。浮気して離婚、再婚すると今度こそはと思うのでしょうが、新しいもの、未知 のものへ過剰な期待をするのが人間の悪いクセです。今現在の旦那さんや奥さんも最初は新鮮であり、そしてそのときのベストな選択だったのですから。

孫悟空が逃げ切ったと思ったらお釈迦様の掌の上だったという話がありますが、 我々はどんなに自分の意志で人生を歩んでいる思っても、所詮は完成されたドミノを倒していくだけです。いやそんなことはない、人生は決まってはいないと仰 る方もいるでしょう。たしかにそうです。でも実際は自分の意志で選んだと思っていたら実は選ばされていた、つまりはお釈迦様の掌で走り回っていたというこ となのではないでしょうか?しかし、たとえそうであったとしても重要なのは自分がどう感じるかだと思いますが。

2009年 9月15日  集中力を養う必要はない!?

夏も終わり9月も半ば、この時期になるともう今年も終わりに近づいてきたように感じます。歳をとる と時間が本当に早く感じるものですね。子供のときのように自分のことだけ、目先の試験で点をとるため、あるいは、本当の意味も分からず良い学校に受かるだ けのために時間を費やしているわけではなく、今は生きるため、家族を養うために働いているのです。つまり、意味も分からずやらされているわけではなく、使 命と義務の基に動いているわけです。昔は早く過ぎて欲しかった時間が、今は足りなくて焦っているわけですから時間の感覚が違うのは当然です。

ところで、子供を育てていて迷うのは、子供の自主性、積極性、想像力、発想力といったものを養う上で、どこまで親が強制的に行わせたり教えたりすべきか、 どこまで自由にやらせてあげるべきかというところです。子育てで迷ったときはいつも、自分の子供の頃を思い出し、可能な限りそのときの自分の気持ちや親の 接し方などを基準に考えていますが、やはり同じ子供でも人間ですから一人一人違うので一様にはいきません。

私は決して特別に優れた能力や技能があるわけではありませんが、最近の早期からの幼児教育をもし受けていたら違っていたでしょうか?それらの教育法が正し いかどうかは100%の答えは出ないでしょう。ある子供には適していても別の子供には適さないかもしれません。しかし、今の子供にはそれらを試すチャンス が昔よりもあります。情報も実践の場も豊富にあります。であれば親の時間と経済が許す限り、
与えてあげてもいいのではないかと思っています。

今、我家の長女には毎日プリントをやらせています。しかし、当然のごとく自分がやりたくてやっているのではなく、やれと言っているから仕方なくやっていま す。でも、子供は自分にとって何が必要かどうかはわかりません。放っておけばやりたいことしかやりません。やりたいことがためになることばかりであれば問 題ありませんが、そんなことはまずあり得ませんので、子供の意に反することでもやらせることが親の義務です。

いつも最初は普通にこなしていたプリントも、2,3枚目になると気が散漫になってきます。そうすると 「集中力がない!」とほとんどの親は叱ると思います。でも本当にそうでしょうか?では集中力とはなんでしょうか?文字通り「集中」する力です。なんでもこ なす力のことではなく、集中する力のことです。普段の生活を思い出せばわかることですが、アニメやゲーム、お絵描き、その他の遊びでは集中しろと一言も言 わずとも集中しているではありませんか。つまり集中力はあるのです。

何が言えるかというと、集中力がないんじゃなくて嫌なことはやる気が起きないということです。そういうと「嫌なことでも集中してやれる力が集中力だ」と仰 る方はたくさんいらっしゃると思います。でもそうやって嫌なことをがむしゃらにやらせて集中力をつけようとすることは、嫌いなものを食べないのは消化力が 弱いからだといって胃薬を飲ませるようなものです。重要なことはいかに嫌いなことを楽しく気分よくやらせられるか、嫌いなものをおいしく食べさせられるか ということです。それが親のすべきことではないでしょうか。でも、ただおだてるだけでは「やってあげてる」的精神となり、本当にそれを楽しんでやってはい ないので永続的な効果はありません。治療で言えば対症療法であり根本治療ではありません。後に難問や壁に当たったときでも、本当に楽しんで行えるように なっていれば、壁を超えることも楽しみに変えることができるでしょう。

しかし、どんなに好きなことでも長時間やり続けると集中力がなくなってきます。これは集中力が足りないからではなく疲労です。長時間使い続けた神経に疲労が蓄積したわけで、どんなに好きでも疲労は誰にも同様に溜まりますが、休めばまた回復します。

好きこそものの上手なれという言葉がありますが、「好き」であることが能力アップの最低条件となります。ということは好きになれることは才能です。集中力 などというものは誰にでも備わっているのであり、本当に大変なことは好きになれるということなわけです。もちろん好きなだけでは限界があります。もしその 道のプロになろうとか、生業にしようと思うなら
、それを好きというたくさんの人の中でも、より好き、あるいはより優れている人しかなれないからです。ですから好きであればなんでもできるなどという甘い 考えは持ってはおりません。しかし、好きになれるという経験をたくさんさせてあげることが、子育ての第一歩になるのではないでしょうか。

多くを偽性にしてでもやりたいと思えるものを、見つけられるということは幸せなことです。 年収数千万あっても好きではない仕事をやらなければならないのと、天職と言えるような好きなことを貧しくとも仕事として自由にやり続けられる人生、みなさんはどちらを選びますか?

2009年 10月12日  椎間板ヘルニア神話の崩壊?

今年のPAAC主催の国際セミナーの一日目の午前中は、最近話題のトリガーポイントブロックで有名な加茂先生の講義 でした。この先生は今現在も整形外科の主流である損傷モデル理論に真っ向否定し、そして痛みの治療の実績をあげておられる方です。損傷モデル理論とは簡単 に言えば、背骨や椎間板などが変形し神経が圧迫されると痛いといった理論です。腰が痛くて整形外科に行きレントゲンやMRIなどを撮ると、椎間板ヘルニア ですねとか脊柱管狭窄症ですねなどと言われる方が非常にたくさんいらっしゃいます。そして、こんだけ椎間板が飛び出てれば痛いはずですなどと言われると、 思わず納得してしまいます。しかし、これらは痛みの原因とは全く関係ないというのです。

なぜなら、脊髄から分岐して脊髄神経は、脊椎の出口で神経根となりますが、神経生理学的に考えてこの神経根をヘルニアが圧迫したところで痛みもシビレも起 きるはずがないというのです。痛みを感じるのは神経線維の先端についている痛みセンサーだけであり、神経の途中で痛みが発生したり感知したりすることはな いのです。神経学的に考えれば当たり前のことなのに医者は損傷モデルを妄信し、ほとんど治らない治療を機械的に続けているのが不思議だと加茂先生はおっ しゃておりました。つまり、ほとんどの医者は病気に関しては詳しいが、「痛み」に関してはほとんど理解していないということです。

では「痛み」とはなんでしょうか?国際疼痛学会の定義によると、「痛み」とは二面性があるとされています。痛いと感じる「感覚」としての一面と、「悲し い」「苦しい」などのような「情動=心の動き」という一面を持っているとしたのです。痛みには大きく分けると二種類あり、刺激を受けた瞬間に感じる「早い 痛み」と、後から出てくるジクジクとした「遅い痛み」です。問題はこの「遅い痛み」であり、これの原因は主にブラジキニンといわれる発痛物質です。

患部が刺激を受けると交感神経が緊張し、それによって血管が縮むので血流が悪くなり、筋肉が酸欠状態となります。その状況に反応して血液中からブラジキニ ンが放出されるのです。このブラジキニンが、知覚神経の先端についている知覚センサーにぶつかると、そこで痛みの電気信号が発生し脳に伝達されるわけで す。しかし、不思議なことに痛みは外的な刺激がなくても感じることがあります。怒りや悲しみなどの精神的に異常な状態においても、交感神経が緊張し血管を 縮ませるので先ほどの過程と同様に痛みを発生させるわけです。

また、痛みは脳や脊髄の無駄な仕事によって慢性化されていきます。脳に向かって、長期間、持続的な痛みの信号を送り続けると、信号が神経回路に記憶され、 痛みの原因がなくなった後も、痛み信号を送り続けることがあるのですが、これがさらに複雑な痛み(慢性痛)をつくってしまうとされています。この慢性化を 助長させているのが、心理的、情動的な葛藤です。身体的な異常に過度な不安を抱くと、今度はそれが情動刺激となってさらに身体を変化させてしまうという悪 循環をつくりあげます。こうなると、僅かな痛みでも激痛に感じてしまったり、怪我が治った後でも痛みが取れないという現象が起こります。

現代はストレス社会といわれておりますが、日常生活におけるストレスも痛みを発生させる原因となりますし、また、痛みによってそれがストレスになってしま いまた痛みを生むこともあり、結局全ての痛みには少なからず心因性の問題が含まれていると言えます。ですから、心因性の腰痛などと分類することじたいおか しなことです。たとえきっかけはストレスであったとしても結果的には先ほど説明したような身体的変化が起きているわけですので、もはや純粋に心の問題だけ とは言えないのです。

結果的に、痛みを起こしている原因は何かというと、加茂先生はほとんどの筋骨格的問題は筋肉のスパズム(けいれん)だと言い切っておられます。痛みによっ て緊張し血流が悪くなるわけですから、治療は筋肉のスパズムを解消すればよいというシンプルなものです。加茂先生は医者なので麻酔剤を注射しますが、手段 はマッサージでも鍼でも効果を出せればなんでもいいのです。

しかし、ここで大きな問題です。以上の理論が正しいとするならば、背骨の矯正を前提として治療するカイロプラクティックを真っ向から否定されてしまう気が します。そこで、そのことについての見解をI先生に伺ったところ、さすが難なくお答え頂きました。聞けばなんだそうかと当たり前のようなことなのですが、 実際ほとんど人はすぐには答えられないのではないでしょうか。「痛みやシビレはたしかに神経根を圧迫しても起きないかもしれないが、神経の流れは悪くなり 機能低下は起こるので、その神経支配下にある筋肉に萎縮が起き、結果的に筋のスパズムが起きる。だから背骨を矯正すれば筋のスパズムもなくなって痛みも消 える、それだけのことでしょう」、たしかにそのとおりですね。安心しました(笑

つまり、神経根を圧迫しても痛みは起きないが、最終的にはそこを治しておかないと根本的には改善されないわけです。だからこそカイロプラクターの存在意義 があると言えます。ただ、痛みをとるということが医療においては先決となります。痛みをとるのが目的であれば必ずしも構造を正す必要はなく、痛みの原因を 直接取り除けば良いのです。そのことは加茂先生も損傷の治療と痛みの治療は別であり、二本立てで行うとおっしゃっております。まずは痛みをなくし、その後 に修理すべき構造の破綻があるかを検査し、あれば別途処置するということです。

これはカイロプラクティックの臨床においても全く同様のことが言えます。いくら根本療法だといって最初から背骨を治しても、痛みが取れなければ患者さんは 辛いだけです。痛みや症状を改善するためには生理的な治療が重要になってきます。SOT的に言えばカテゴリー外の問題、即ち内臓機能的な問題であり、カテ ゴリー治療は慢性的な構造問題なのであまり最初からやっても意味がありません。まあ同様と言っても、整形外科とカイロプラクティックですから治療の焦点や 哲学は違いますが、「損傷モデル」から「生物・心理・社会的医学モデル」へとシフトされてきているという点は非常に参考になったと思います。


2009年 11月16日  人間の最大の欲望

最近、芸能人の覚醒剤使用が多く発覚されています。実際に発覚して逮捕されているのは氷山の一角らしいですが、芸能 界という業界そのものにも問題があるようです。お金があるという理由だけではなさそうです。なぜならお金だけの話なら他の業界の人でもあり得る話ですが、 実際には芸能界ほど使用者が過密化してはいないのではないでしょうか。もちろんお金がたくさんあれば欲求はエスカレートしていきます。巨富を得てお金の魔 力をコントロールできない人は、詐欺罪で起訴された某音楽プロデューサーや先日亡くなられたM.ジャクソン氏などのように、ほとんど一般的な金銭感覚は失 われ最終的には全てを失ってしまうことになります。

エスカレートしていった欲求はお金でほとんどのものが満たされるようになり、善悪の判断もつきづらくなります。そして人間の快楽への欲求は慣れによって変 化、あるいは増強させなければ満たされなくなります。薬やお酒などの物質的な刺激だけでなく遊び、恋愛、スリルなども常に同じ刺激では心や体は満たされな くなるのです。筋肉トレーニングも一緒です。365日同じメニューで同じ回数、同じセット数、同じ重さでやっていても、一定のところまで成長したらそれ以 上はいくらやっても変化しません。メニューを変えるなり重さや回数を変えるなりすることによって、筋肉は再び成長し始めるのです。トレーニングでは筋肉痛 は一つの目安となり、それが起きなくなったら刺激を変えていくタイミングにするとよいでしょう。

ちなみに若いときは次の日に筋肉痛が起きたけど、歳をとるとその次の日以降に起きるというようなことが言われておりますが、実際には年齢は関係なく、筋肉 痛の起きる早さが関係するのは運動量であり、若いときはたくさん激しく動くので次の日、早ければその日のうちにやってきます。しかし、歳をとると体力が落 ちるのでわずかな運動量でもたくさんやった気になりますが、実際には大した運動量ではないので筋肉痛が起きるのが遅いのです。

話を戻しますと、お金があるとたしかにさらなる刺激や快楽を求める結果、覚醒剤などに手を出す人もいるでしょうが、普通に常識のある人であれば過ちを犯す ことはないでしょう。元来、より幸せになろうとする傾向というのは人間に与えられた特性です。マッサージを受けている途中でいい香りがしてきたら意識はそ ちらへ傾くでしょう。人間の心は常に幸せになりたがっています。でもそうでなければ人間は成長もしませんし夢をつかんで幸せにもなれません。問題はその傾 向が非生産的な方向へ進んでしまうことです。

お酒を飲むことは害もありますが、飲み方や量などによっては良い部分もあります。しかし、覚醒剤はタバコの百害あって一利なしどころではありません。覚醒 剤の危険性は誰もが知っているので、どんなにお金があっても普通はやらないのです。ではなぜ芸能界は手を出してしまう人が多いのでしょうか?

一番の理由は極限の疲労ではないでしょうか?ほとんど寝る暇もない過密なスケジュール、そこに様々なプレッシャーなどが加わり心と体は強力なストレスにさ らされます。人間は眠ることによってその日の疲労を回復し次の日への準備します。しかし、眠る時間がないので睡眠不足を栄養剤などで補おうとしたり、果て は覚醒剤で乗切ろうとするわけです。しかし、睡眠を代用できるものは何一つありません。栄養剤を飲んだって神経系の疲労は減りませんし、むしろ内臓を無理 矢理働かせるわけですから疲労は溜まる一方です。それでもドッと溜まった疲労を十分な睡眠によって定期的にとれていればいいですが、休まないで働き続ける と心筋梗塞や脳梗塞で倒れたり、気づかぬうちに末期ガンになっていたりするわけです。

覚醒剤を使用した場合には、無理矢理意識を覚醒させているわけですからその反動は大変なものです。睡眠の代用を繰り返したツケは確実に返ってくるのです。 睡眠は人間の三大欲望の一つでありその中でも最も強力なものですから、それを一時的にでも無理矢理押さえ込む覚醒剤がいかに危険な薬であるかは容易に想像 できます。

睡眠、栄養は他の何かに置き換えることはできないのです。よく勘違いされているのが、治療さえすれば治るとか、治療すれば無理しても大丈夫といった治療に 対する過剰な願望や信仰です。いつもお話させて頂いておりますが、カイロプラクティックやオステオパシーを含めた手技療法全般、西洋医学などは全て「治 す」ことはできません。「治せる体」にしているだけです。例えば火傷をした場合、処置をできても最終的に治癒させるのは自身の生命力です。カイロプラク ティック的に言えば腰痛を治しているのではなく、イネイト(自然治癒力のようなもの)が働かなくなっている原因を取り除くことによって、結果、患者さん自 身の自然治癒力で治せる体にリセットしているだけです。

この「治せる体」にするにはカイロプラクティックなり何らかの治療が必要であり、これを睡眠や栄養で置き換えることはできません。また、「治せる体」に なったらそのままでは治りません。睡眠をとることによって神経系の疲労をとり自然治癒力が働きやすくしてあげることが必須です。ですから症状の変化は治療 した直後よりも次の日に現れることも多いのです。さらに、栄養すなわち車で言えばガソリンなどの燃料を供給しなければ内臓は働いてくれませんし、壊れた組 織も修復されません。

治療、睡眠、栄養は三本柱であり、カイロプラクティックやその元になったオステオパシーでは構造(治療)、精神(睡眠)、科学(栄養)に当てはめることが できます。この3つのバランスがとれていないと健康であるとは言えません。前回も書きましたがストレスや精神的な苦痛も肉体的な痛みを引き起こします。否 定的な感情も治癒の邪魔をします。また、過剰なダイエット、サプリに頼って食事をしない人なども体は治癒していきません。治療してもなかなか良くなならい という方は、もしかしたらその3つのバランスが大きく崩れているのかもしれません。

睡眠不足の方、薬や栄養剤、お酒などに頼りすぎずに少し体を休めてあげてはいかがでしょうか?これから年末にかけては飲む機会も多くなり、さらに睡眠不足が増えそうです。どうかご自愛下さい。

2010年 3月2日 夢に中で生きる 

すっかり年も明け既に3月になってしまいました。正月あたりにコラムをゆっくり書こうかなと思っていたところ、年賀状の宛 名を印刷をしようと思った12月27日、突然パソコンが壊れました。200枚近いハガキを目の前に呆然としました。電源の初期不良が多かったとされる imac G5初期モデルですが、5年目にして遂に噂の電源が突然落ちるという症状が発症してしまったのです。今まで起きなかったのが幸せなのですが、逆に早くに発 症していれば無償で修理してもらえたのです。また、最近のmacは性能もはるかによくそれでいて価格も以前の半額近いので、新しいのが欲しいなあと思って いたのですが、まだ全然問題なく使えるので買い換える理由がありませんでした。ところが壊れたことにより結局、幸か不幸か新しいmacを購入し手に入れた のです!

そう考えると絶対的な幸せというのは存在しないことがわかります。一つの事象は単にその状態を現しているだけであり、幸せでも不幸でもないのです。幸せで あるとか不幸であるというのは当事者が意味づけているだけであり、その当事者の心の反映です。例えば自分の家族が死んだとしても、それは単に世の無常として起きたことに過ぎません。あなたはとても悲しむでしょうがしかし、 全く面識もない第三者が
その死についてなんらかの形で知ったとしても、誰もほとんど悲しまないでしょう。結局「死」そのものは悲しいものではないということになります。

ところで最近よく昔の人や仕事場が出てくる夢をみます。なんとも目覚めた後は複雑な気持ちになる夢です。夢というのは本当に不思議な現象ですね。 現実ではないのに見ている最中は現実に近いリアル感があります。いくら目覚めている時に想像してもあのリアルさは味わえません。その違いはそのときの意識 状態にあるのではないでしょうか。ヴェーダでは意識と言うのは大きく分けると4つの状態があるといわれています。

まずは顕在意識すなわち「目覚め」の状態。これは我々が普段活動している時の状態で、最も粗雑な意識レベルです。意識を海に例えると一番波の荒い海面上に なります。その次に「眠り」の状態、そして「夢」、最後が第四の意識といわれる純粋意識すなわち「悟り」の状態であり、海でいうと海底の最も静寂なレベル です。

このようにヴェーダ的観点からみれば夢と現実ははっきりとした区別があります。夢はあくまでも夢なのです。しかし一見合理的な西洋哲学の観点からみると、 夢と現実の判別は不可能という非現実的な結果になるような気がします。みなさんは「ジェイコブス・ラダー」という映画をご存知でしょうか?ティム・ロビン ス主演のサイコ・スリラーです。かつてのベトナム戦争の体験が毎日のように夢に出でくるのですが、実はその戦争が現実で現実だと思っていた生活は死の直前 に体験した幻覚だったのです。

我々は今どんなにこれが現実だと思っても、100%それを確信できる術を持っているでしょうか?よく嬉しい夢を見ているとき私は夢の中でこれは夢か現実か 見極めようとします。夢に中で絶対これは現実だと確信するのですが必ずその期待は裏切られます。また、夢の中で夢をみるという二重の場合もあります。この場合 はもうさらに判別困難です。

そうなるともうどちらが現実でどちらが夢なのかどちらでもいいような気がしてきます。そもそも夢と現実などという区別をすること自体に意味が無いのかもし れません。夢と現実は意識のチャンネルの切り替えで観れる心の投影なのかもしれません。基本的には現実と言われている方は夢と夢の合間に続く連続ドラマな ので、こちらを現実とみなすのが一般的であります。

では「現実」とはなんでしょうか?本当に「現実」というものは存在するのでしょうか?本当は全て夢なのではないでしょうか?今、世の中があるのは「私」が 在るからとも言えます。この世の中は私が作り出した虚像だとすると、もし私が死んだらこの世も消えてしまうでしょう、などというと独我論者めと言われてし まいそうですが。

しかし結局のところ「この世界は夢ではない」ということを証明はできません。夢であるならば我々は何のために苦しんだり悩んだりしているのでしょうか?疑 いだすとキリがありません。いずれにしても現実であろうが夢であろうが私達はその中で生きていかなければなりません。たとえ今この現実が他人の「夢の中」 であったとしてもその人の夢が覚めない限り生き続けなければなりません。「ゲンジツ逃避」はできないのです。

さあみなさん、楽しみも苦しみも受け入れて一生懸命生きましょう!


2010年 4月21日 神は左利きだった?

今年は本当に異常な気候ですね。寒さと暑さがこう交互に続くと体調が崩れます。40年ぶりの4月の雪が振ったかと思ったら今日はTシャツ一枚で外が歩けました。正直今日は体がだるいです。

ところで世の中には様々な法則があります。実生活においていろいろな局面で意識的、無意識的に活用されているものもたくさんあります。例えば「人間は左側 が好き」という法則を感じたことはないでしょうか?人間は左側と右側にどちらに壁があった方が歩きやすいと思いますか?全員ではないでしょうがほとんどの 人が左側ではないでしょうか。

実は様々な施設や建物などは左回り、即ち反時計回りに動線計画されています。まわりにあるコンビニなどを思い出してみると、たしかに入り口が右側にあり商 品陳列が左側にある方の店のほうが多いようですし、またなんとなく好感度があります。また視線の動きも左上からZ字状に移動するので目立たせたい商品は左 上に持ってくるといいようです。字を書く方向もやはり左から右ですね(縦書きはなぜ右からという疑問がわきますが、それに関しては昔の書物は巻物だっため という意見が多いようです)。

この左回りはミクロの世界からマクロの世界にまで存在しています。DNA、朝顔のツル、競技のトラックから地球の自転、公転までほとんどのものが左回転で す。赤ちゃんが産道を通って生まれてくる時も左回りです。そして右ネジの法則では電流の作る磁場も左回転、また、実際のネジも左巻きが主流です。

しかし、こういうことを考えていくとあるとき「ん?」と疑問がわいてくるのです。例えば朝顔のツルですがこれは本や人によって左巻き、右巻きと反対に書か れています。生物学的には左巻きなようですが、これは見方の違いによって生じる問題なのです。上から見た場合は左巻き、下から見た場合には反対の右巻きに なります。ただ、この表現は曖昧で条件に統一性がないので誤解を招きます。

そこで一般的に右ネジの溝と同じ巻き方向の巻き方をZ巻き、その反対の巻き方をS巻きといいます。つまり進行方向を上にして立てたとき横から見ると目に見 える部分が右側に流れているのがZ巻きになります。ところがこのツル自身は左に回っているのです。地球の自転も地球自身の立場でみれば左に回っています が、地球を横から客観的に見れば右に回っているとも言えます。トラックを走る競技者自身からみればやはり左回りですが、観戦している人にしてみれば右に向 かって走って見えるわけです。

結局、右とか左という表現はどこか別の基準を一定にした場合に成り立つものなので定義付けるには相応しくないと言えます。重要なことは言葉ではなくいわゆ る「左回り」の本質を理解していればよいことなのです。この言葉の問題は治療家の間においてもよく発生します。特に勉強を始めたばかりの人は悩まされたの ではないでしょうか。

治療用語の話になってしまい一般の人には興味ないかもしれませんが、オステオパシーの中によく屈曲障害、あるいは伸展障害という表現が出てきます。これは とてもわかりにくい表現だと思いませんか?屈曲障害とは屈曲することができない状態なのか、それとも屈曲されていて伸展することができない状態なのかよく 分かりません。意味的には後者なのですがこれでは分かりにくいということで、この屈曲障害のことを「伸展制限」という言葉で表現されている本や先生もい らっしゃいます。屈曲障害というのは骨の位置やズレを強調した表現であり、伸展制限というのは関節の機能、可動性を重視した表現となります。しかし、カイ ロプラクティックもオステオパシーも骨のズレや歪みを正すのが目的というより、正常な関節機能を回復させる事の方が本質なので、伸展制限の方が適切な表現 ではないでしょうか。

また同じ伸展、屈曲でも使われる局面によって意味が反対になる場合があります。1954年に発表されたフライエットの「オステオパシー・テクニック理論」 の中で、彼は脊柱の屈曲は彎曲の角度が増えることであると考え、胸椎が身体の前方に曲がるときを屈曲と呼び、頚椎や腰椎が前方に曲がるときは彎曲が減少す るためこれを伸展と呼びました。これは一般医学で使われている定義と相反するものであり、その結果オステオパシー医学を混乱させてしまったのです。私も習 い始めはこのことで大変理解に苦しんだ経験があります(一般的には前屈を屈曲、後屈を伸展)。

その他、仙骨の屈曲と伸展も、骨を基準にした場合と硬膜を基準した場合とでは反対になります。これもSOTやオステオパシーを習い始めた人はよく悩むとこ ろです。通常は仙骨尖が前方、仙骨底が後方に移動するのが伸展ですが、頭蓋仙骨系では吸気でロックした状態になりますので屈曲になります。ただ厳密に言い ますと、腸骨に対する仙骨の回旋軸と第一次呼吸の仙骨の回旋軸は異なりますので、単純に反対とは言えないでしょう。

最後に話を戻しますと、この宇宙では主体から見れば左回りのものが圧倒的に多いということですので、何かを作ったりあるいは行動したりするときには、意識的に左回りの構成や動線にすると円滑で効率がよくなるわけです。少し意識的に生活に取り入れてみてはいかがでしょうか。

ちなみによく混同されて間違われることで台風の巻き方は北半球では左巻き、南半球では右巻きと言われておりますが、これはコリオリの力によるものなので別の原理だと思われます。お風呂の水を抜いた後の渦巻方向もコリオリの力によって北半球は左巻き、南半球は右巻きと思われている人もいますが、これに関しては容器の形状、最初に流れた方向などによって巻き方向は決定されるらしいのでコリオリの力は関係ないそうです。


2010年 6月30日  ものの順序

気がついたらもう梅雨ですね。この時期はみなさん具合が悪くなるようでご来院になられる方が多くなりま す。梅雨といえば湿気ですが、アーユルヴェーダ的にみるとこの時期はカパが乱れるときです。カパは「水」や「土」の質であり「構造」を司っていますので重 さを生じます。体質的にいうと太った人やがっちりした人、性格でいうと穏やかな人です。ですからカパが乱れると体が重くなったり、腰痛になったり、太った り、あるいは無気力といった症候が現れます。また、一日の時間でいうと6時から10時はカパが優勢の時間ですから、朝は6時前に起きると目覚めが良くいい サイクルで一日をスタートできます。そして、よく現代医学や栄養学でよく言われる朝食をしっかりとりましょうという健康の常識に相反しますが、アーユル ヴェーダでは朝食はとらない、もしくは軽めにとります。

その理由はカパの影響が関係してきます。朝食と言えばだいたい7〜9時の間にとっていると思いますが、その時間は正にカパが優勢の真っ最中であり消化作用 が低下するときなのです。ですから未消化物が毒素として体に滞留しますので、体は重くなり身も心も鈍くなります。ただ、職業などによっては体力を使うもの もありますので、そういう方は胃に負担がかからないような食事を適度にとるとよいでしょう。ではなぜ一般の栄養学とアーユルヴェーダでは大きく違ってくる のでしょうか?

アーユルヴェーダにおいて最初に考慮しなくてはならない点は、あなたが「何を食べるか」ではなく、あなたの「消化能力はどうか」ということです。ですか ら、まず一日の時間帯による消化能力の変動を考えると朝食はとらないわけですが、カパ体質の人はより気をつけなくてはなりません。さらに、あなたは食べた あと、その食べたものを消化するための十分な時間を、次の食べ物を追加する前に体に与えなくてはなりません。

常に消化器官を働かせていることによって過度の負担がかかり、結果として毒素ができあがり寿命を縮めます。正月のように一日中ダラダラと食べたりするのは 最も良くありません。また、イタリア人のように長い時間かけてゆっくり食べるのは一見良さそうですが同じ理由から良くはありません。一回の食事にかける時 間は30分くらいがいいようです。

今の世の中はマスコミなどで体に良いと言われるとすぐにその食べ物が売れ始めます。関節痛に効くといったサプリなども高齢者の方々がよく飲まれています。 しかし、数ヶ月もすればほとんどそれらの食べ物は並ばなくなります。結局のところ大して思ったほどの効果もないから自然と忘れられていくわけであり、本当 に思ったほどの効果があれば食べ続けてるはずです。どうやら健康ということに多くの人が関心を持っていることは間違いなさそうですが、関心が強い人や流行 物好きの人ほどマスコミや食料品業界に振り回されています。

もちろんその食べ物や栄養素そのものは科学的にまた栄養学的にみても良いものなのかもしれません。しかし、どんなに良い食べ物でも自分の消化能力が十分で なければその効力は発揮されないでしょう。どんなに良いガソリンを入れたってエンジンが弱っていたら意味がありません。ですから重要なことはまず「
消化能力はどうか」であり、その後に「何を食べるか」ということがやってきます。

ちなみに一般的に良いと思われている食べ物でも、その食べ方などによっては体に悪いものになります。例え ば、きのこは神経系統の働きを不安的にします。毒キノコ以外にも本質的には神経を異常にする性質があるのです。不安になったり、緊張しやすい人は控えた方 が良いでしょう。修行中のお坊さんはきのこを食べないそうです。

ところでカイロプラクティック的にみた場合、「治療」「休息(睡眠)」「栄養」のバランスがとれていないと良い健康状態は保てませんが、多くの方々がどれ かに偏る傾向があります。特に治療さえしてれば無理してもかまわないとか、とにかく栄養剤などを飲んでいれば多少無理がきくといったような人たちです。し かし、まずは治療によって神経系や内臓のストレスを取り除き、睡眠と栄養によってその機能を回復させるといった統合的な考え方で行わなければなりません。

ものごとには順序というのがあります。その順番を間違えると正しい効果や最良の結果にはつながりません。弱った体を治療するのであればいきなり骨格を整え るよりもまずは機能を回復させるべきでしょう。太りすぎて腰が痛い?からといっていきなり運動しても痛くてできません。治療して痛みをとってから運動すれ ばよいわけです。また、専門的になりますが当院でも使っているSOTというカイロプラクティックも、ほとんどの先生が本質からズレた考え方で使われていま す。

SOTにおけるカテゴリーとは単に人を症状や体質で分けた分類ではなく、生まれてから死ぬまで人間が退行していく状態を時系列的に分類したものです。です から何も治療しないのに今日はカテゴリー2で明日はカテゴリー1になるということはまずあり得ません。座骨神経痛だからカテゴリー3というのは症状や部分 的なインディケーターで判断した偽性カテゴリー3です。ですが年齢的に考えればほとんどの初診の成人患者はカテゴリー3といっても過言ではないでしょう。 一見ありそうなヒールテンションも単なるヒールロックで緩めれば消えてしまう偽性カテゴリー1です。カテゴリー1というのは硬膜の問題なわけですが、筋骨 格系の問題であるカテゴリー2、3を治療しなければほとんど意味がありません。例えるなら錆び付いたモーターのゴムベルトだけを直すようなものです。

SOTは親切なことにこの順番をインディケーターによって教えてくれます。逆に言えばそれだけ順序というものが重要であるということです。順序を守るということは治療においてもまた社会においても、最も確実にそして早く結果を出すためのルールであるということですね。


2010年 8月1日  カブトムシ vs クワガタ

暑い日が続きますね。夏と言えば日焼けした褐色の筋肉という時期もありましたが、最近は海に行って浜辺で まったりと日焼けなんては全く思わなくなりました。いや、できなくりました、いろんな意味で・・・。さらに遡ること数十年、子供の頃夏の英雄といえばカブ トムシやクワガタです。都会育ちとしては田舎に憧れたものです。

ところでみなさんはカブトムシ派ですか?それともクワガタ派ですか?私は熱狂的なクワガタ派です。昆虫の王様といえば昔からカブトムシであり人気度もナン バー1だと思います。しかし私はやはりクワガタです。特にノコギリクワガタとミヤマクワガタのあの角(ハサミ)の流線的なフォルムは美しくてずっと見てい ても飽きません。さらにカブトムシのずっしりとした体に対しクワガタのうすくてスリムな体、カブトムシがプロレスラーだとしたらクワガタはシャープなボク サーの体です。

実際に戦わすと残念なことにカブトムシの方が強いのですが、それでもクワガタの造形美や負けざま全てが魅力的なのです。それは私だけではなく多くのクワガ タ信者が感じていることだと思います。しかし私はカブトムシとクワガタに限らず世の中にはこれに共通するものがたくさんあることに気づきました。

例えば、漫画からいくつか挙げますとガッチャマンの大鷲の健とコンドルのジョー、北斗の拳ではケンシロウとラオウ、ドラゴンボールではカカロットとベジー タ等々いくらでもでてきます。これらはみんな主人公あるいはリーダーと第一脇役あるいはサブリーダーという構図です。人気度、ビジュアル、実力など総合的 には主人公が一番優っているはずなのですが、なぜかナンバー2の方がカッコいいのです。くだらない話で申し訳ありませんがこのことを私は「カブトムシとク ワガタの法則」と名づけました。

ところで昔読んだ本で、人間を心理学的に大きく二つに分ける大変興味深い説がありました。これは
「カブトムシとクワガタの法則」をより広義にとらえた法則ではないかと思っております。その本について少しお話させていただきます。

一般的に中高年の方々から見ると若者は個性的であると感じている事と思います。しかし、今の若者は本当に個性的なのでしょうか?一昔前に流行った、茶髪、 ガングロ、ルーズソックスなどの女子高生ファッションを当時見た大人はなんて奇抜で個性的だと思ったことでしょう。ファッションであれ芸術であれ従来の常 識を覆すような奇抜さをもつものは個性的に見えるものだからです。

ところがファッションが奇抜だからといって個性的であるとは限りません。なぜなら彼女たちはみんなで同じように奇抜な格好をしているからです。「個性的で ありたい」というのは本来、「人と同じでいたくない」ということでしょう。実際の行動は全く反対の「みんなと同じでいたい」という気持ちの表れです。メガ ヒット商品や音楽などはみんなが持っている、みんなが聞いているから自分もそれを手に入れることで安心感を得ているわけです。これは逆に言うと今の若い世 代には自分がないとも言えます。

そのように何でも周囲に合わせようとするパーソナリティの持ち主を「シゾフレ人間」、反対に自分をしっかり持っていてあまり周囲に流されないパーソナリティの持ち主を「メランコ人間」と呼ぶとします。その意味などは後で説明いたします。

異論もあるかと思いますが、音楽で言えば一世を風靡した小室哲哉やサザン、ユーミンなどは「シゾフレ人間」が聞く代表的なアーティストだと思います。「シゾフレ人間」は「みんなが好きなモノが好き」で「みんなが買うものを買う」わけですから、極端な話、曲の中身や歌手の個性はあまり関係ありません。重要なことはプロデューサーの仕掛け方が当たったということです。

小室哲哉が同じような曲を作り続けても売れていたのは、
「シゾフレ人間」が個性を求めていたわけではなかったからです。中身や質を吟味して買っているわけではないので、みんなと同じという安心感がもてればよいのです。ですから、「シゾフレ人間」にモノを売ろうとしたら、ワンパターンを恐れる必要はないのです。

その点で明暗を分けたのが、「ポケモン」と「たまごっち」でした。どちらも大ヒットを飛ばしましたが「ポケモン」に対し「たまごっち」は一過性のブームに 終わっています。その原因はこどもたちがおもちゃに個性や多様性を求めていると勘違いしたからです。バンダイは最初に売られた「たまごっち」だけでは飽き られると思い「天使っち」「森のたまごっち」など多くのバリエーションを売り出しました。しかしこれが裏目に出たのです。

一方「ポケモン」の方は数百のバリエーションがあるとはいえ、メインはあくまでも「ピカチュウ」です。多様なアイテムを並列で売ろうとしたたまごっちに対 して、ポケモンは一貫してピカチュウとその他の大勢という図式を押し通したわけです。ピカチュウ以外のその他の大勢のキャラクターは、他人と同じなのがイ ヤと思っている少数派のために用意されているに過ぎません。ですから子供たちはピカチュウさえ好きだと言っていればみんなと同じ感覚を持つ者として認識さ れ、仲間ハズレにされることはないのです。

SMAPというグループもポケモンと同じ構図で成り立っているため今だに人気が衰えないのです。神様はキムタクひとり、あとの四人は少数派「メランコ人 間」のために存在しているわけです。少々乱暴ではありますがピカチュウやキムタクはカブトムシ、その他大勢の一番人気がクワガタに当てはまるような気がし ます。

では「
シゾフレ」とは何かと言うと「シゾフレニア(精神分裂病)」という言葉からの造語で、「メランコ」 とは「メランコリー(うつ病)」から名付けたものです。世界中のどこの文明国でも内因性の精神病は二大精神病である分裂病と躁うつ病しかありません。この 世に精神病が二つしかないのであれば、人間のパーソナリティが二つに分類できてもおかしくはありません。分裂病と躁うつ病を比較した場合、最も対照的なの は、それぞれの患者が抱く妄想の内容でしょう。どちらも症状が悪化すると強い妄想に苦しめられるのですが、その世界は正反対です。分裂病は外部の世界にこ だわる病気で、躁うつ病は自分にこだわる病気とも言えます。

もう少し詳しくそれぞれの特徴を説明します。「シゾフレ人間」は心の世界の主役が自分ではなく他人です。そのため行動の基準になる価値観は自分の中に ありませんので、周囲の人々の価値観に合わせて行動します。周囲がカッコいいと言えばそれがカッコいい、そこに自分の価値判断はありません。彼らはいつ も周囲の人々の目を気にしつつ、それに合わせているだけです。テレビやマスコミに流されやすく、またブランド好きなのも大きな特徴でしょう。

他方の「メランコ人間」は心の世界の主役は自分です。周囲の意見に左右されず我が道を行くタイプだと言えるでしょう。みんなと同じであることを嫌がり、他 人とは違う自分でいたいと思っています。テレビやマスコミにもあまり流されず、流行には感化されません。昔の人は「メランコ人間」が多かったと言えます。 その理由は、社会全体が貧しい時代、みんなと同じようにやっていてはいい生活ができなかったからです。戦後の貧しい時代に生まれた団魂の世代は、一生懸命 競争しました。早い話「メランコ人間」の方が得をする時代だったのです。

しかし、社会全体が豊かになってくると、みんなと同じようにやっていれば、それなりの幸福を得ることができます。ところが国全体が豊かになった今の日本で は、努力が報われない社会になったとも言えます。またアメリカではマイケル・ジャクソンの売れ方を見れば分かるとおり、巨大ヒットのスケールは日本の比で はありません。シゾフレ化は先進国に共通の現象ですが、この不景気な時代こそまさしくメランコ人間が必要とされているのではないでしょうか。今は一昔前の ように一流大学をでれば一流企業に就職できる約束などは全くありません。一流企業どころか就職すらできない時代です。良くも悪くも、こだわりを持ち手に職を持った人間が 生き残れる時代になったのです。


2010年 9月16日  オステオパシーとホメオパシー

今年は本当に猛暑でしたね。ようやく涼しくなりましたが急に環境が変化すると体がそれについていけずに不調をきたします。また、夏の疲れが出始めるのがこれからです。特に今年は猛暑でしたのでだいぶ内臓もオーバーワークで弱っているでしょう。特にお年寄りや体の弱い方は気をつけないといけませんね。

ところで、みなさんはホメオパシーというものをご存知でしょうか?オステオパシーではありません、ホメオパシーです。欧州を中心に世界中で200年以上前から行われている代替療法です。しかし、
8月24日、日本学術会議はホ メオパシーの効果には科学的な根拠がなく荒唐無稽として、医療従事者が治療法として用いないように求める会長談話を発表しました。ホメオパシーのレメディ は「ただの水」だから治療効果があるはずがないと言い切り、ホメオパシーが主張する効能を一蹴し、日本の医療現場からホメオパシーを排除すべきだというこ とです。

私も勉強したことないので詳しくはないのですが、ホメオパシーとは何かについて全くご存じない方のために 少しご説明しますと、「健康な人間に与えたら似た症状をひき起こすであろう物質をある症状を持つ患者に極く僅か与えることにより、体の抵抗力を引き出し症 状を軽減する」という理論およびそれに基づく行為であり、類似したものは類似したものを治すという「類似(同種)の法則」を基に成り立っています。

簡単に言えば、何か症状を出ているときにその症状の原因と似たものを与えればよいということですが、これと正反対な理論がアロパシー(逆療法)であり現代 医学の根本です。つまり現代医学では症状を抑制する薬を与えるわけですが、ホメオパシーでは症状を押し出すレメディーという物質を与えるのです。

レメディーとは、ある病状を引き起こす成分を水によって極めて高度に希釈したものを砂糖に染み込ませたものです。希釈の度合いは様々ですが10の60乗倍に希釈したものが最も用いられているようです
。さらに、その物質が限りなく薄く希釈されるほど治癒能力を得ることが出来ると考えているのです。しかし、ここまで薄めてしまうと元の物質は殆ど残っておらず、科学的にはただの砂糖玉と同じといえます。

これでは「ただの砂糖玉」ですから「副作用がない」ことはもちろんですが、治療効果もあるはずがありません。物質が存在しないのに治療効果があると称する ことの矛盾に対しては、「水が、かつて物質が存在したという記憶を持っているため」と説明しています。有効成分の「記憶」が症状を引き出し、自然治癒力を 高めるというのです。しかしこの主張には科学的な根拠がなく、荒唐無稽としか言いようがないというのが
日本学術会議の見解です

現在日本においては、イギリスのように公的保険の対象にはなってはいませんが、日本助産師会はホメオパシーを広める活動を展開してきました。しかし、近年 日本国内でも、与えるべきビタミンKシロップを与えず、いわゆる「レメディー」を用いて新生児を死に至らしめたとして助産師が訴訟を起こされた(山口新生 児ビタミンK欠乏性出血症死亡事故)ように、現代医学や科学的な思考の否定をその構造にもつホメオパシーの危険性を指摘する声は高まっています。

ホメオパシー側の反論としては科学的な根拠を示すことはできないが、実際に良くなっている患者がたくさんいるということは効果があるという証拠であるとし ています。これは1600年ころの帰納主義的な論法であり、たくさんの観測データから一般的な法則を導くやり方で、観測データが多ければ多いほど信頼性が 増し正当化されます。しかし、実際みなさんがもつ「科学」のイメージはまさにこれなのです。ですから良くなっている患者を見せられると思わず納得してしま うわけです。新興宗教や占いの類もこれと同じ論法と手法によって信者を獲得しています。

以前にも書きましたがこの帰納主義の大きな問題は、いくらデータを集めても都合の良いデータばかり集めれば「これは科学的な理論」ですと言えてしまうこと です。たまたま他の理由で治ってたとしても、またプラセボ効果で良くなったとしてもそういうデータが集めれば成り立ってしまうわけです。

また、いくら副作用がないから問題ないとかプラセボであっても効くのだから治療になると主張しても、ホメオパシーに頼ることによって、確実で有効な治療を 受ける機会を逸する可能性があることが大きな問題であり、時には命にかかわる事態も起こりかねないので医療従事者には治療に使用することは厳に慎むように 呼び掛けているのです。

さて、このホメオパシー名前は似ていても中身はオステオパシーとは全く別物であるということはわかっていただけたと思いますが、いくつかの共通点や似てい るところがあることに気が付きます。まずその一つに「自然治癒力」を使うということです。ただこれはホメオパシーやオステオパシーに限らずカイロプラク ティックや鍼灸、マッサージあるいは現代医学においても共通していることです。例えば骨折したとします。その場合整形外科などに行って整復したり固定して もらいますがそれで治るわけではありません。最終的に折れた骨をくっつけるのは患者さん自身の生命力、即ち自然治癒力です。死んだ人間の骨はいくら固定し ても治らないでしょう。

つまり、医者やその他治療家のできることは治すことではなく、患者さん自身が治る手助けをするだけです。医者は薬や手術で、カイロプラクターは手技で、鍼 灸師は鍼や灸を使って自然治癒力の働きを助けてあげているわけです。薬や医者嫌いな人がけっこういらっしゃいますが、そういう方は命に関わるような病気に なっても現代医療を拒否します。もちろん骨折して医者に行かなくてもほっとけば骨はくっつくでしょうが、治りも遅いでしょうしそれに正しい状態で接合され ないので関節が正常に機能しなかったり様々な後遺症が出るでしょう。

一番重要なことは「今の状態が自然治癒力に任せているだけで間に合うかどうか」ということだと思います。
山口新生児ビタミンK欠乏性出血症死亡事故などのホ メオパシーのトラブルもそうですが、そのときの生命力のレベルを考慮せずになんでもかんでも自然治癒力でなんとかなるという浅慮な考えがマズイのです。癌 に侵された患者が薬や手術を拒否するのは無謀と言わざる得ません。癌を患っているということはそれだけ生命力が弱っている、即ち自然治癒力が弱いというこ となわけですからなおさら手助けが必要なわけです。

カイロプラクティックやオステオパシーは〇〇に効きますかという質問がよくありますが、効きますかと聞かれればたとえどんな症状や病気に対してでも「効果はあります」と答えます。
カ イロプラクティックやオステオパシーの目的は症状を無くしたり病気を治すことではなく、自然治癒力が働きやすい状態にしてあげるだけだからです。今まで骨 格の歪みや内臓の働きが低下していたために自然治癒力が十分に発揮できなかったものが、その障害を取り除いたことによって結果として腰痛が無くなったり胃 の調子が良くなったりします。

しかし、胃の調子が悪い(機能的疾患)程度であれば、手技によって自然治癒力の働きを手助けしてあげれば治るかもしれませんが、癌や潰瘍(器質的疾患)ま で悪化したら手技だけではおそらく不十分でしょう。でも、治らないまでも確実に自然治癒力がより働きやすい状態になっているわけですから、僅かでもプラス の方向に進んでいるということで効果はあると言えるわけです。

自然治癒力は代替療法や民間療法の特権ではないということが分かっていただけたでしょうか。

ホメオパシーとオステオパシーのもう一つの類似点ですが、
ホメオパシーの基本である「類似(同種)の 法則」というのは以前ご紹介した「同質の原理」という音楽療法で使われる原理によく似ています。これはオステオパシーの言葉ではありませんが、原理的に言 うと間接法というテクニックであると言えます。例えば、ある椎骨が右にズレていれば、そのズレを誇張するようにさらに右に動かします。そうすると体(自然 治癒力)は間違った情報に気がつき、正しい位置に戻そうとし始めます。

いろいろと見渡してみるとこのような原理というのは昔から様々な領域に存在していることが分かりますね。ではオステオパシーとホメオパシーの決定的な違い は何かと言いますと、理論の前提の科学性です。オステオパシーの理論は解剖と生理の上に成り立っていますが、ホメオパシーは「水の記憶」というあまりにも 科学を無視した意見を前提に理論が展開されているのです。正直、ホメオパシーとオステオパシーを、名前が似ているだけで比べる意味はあまりないのですが、 ホメオパシーの肩を少し持つならばホメオパシーが疑似科学でオステオパシーは科学であるなどということこそ
荒唐無稽です。

また、ホメオパシーが疑似科学であるというのであれば、カイロプラクティックも同様です。なぜならカイロプラクティックというのはイネイトインテリジェン スという存在の上に成り立つ理論だからです。イネイト(先天的知能)は目に見えないし科学的に認知されていませんので、このイネイトを前提にした理論は科 学的とは言えないのです。でもまあホメオパシーじゃないけれど実際に効果があるんだからいいじゃねえかということで認知されています(様々な臨床データの 信憑性が全く違うのだと思いますが)。

ということで我々一般人としては一番重要なのは科学的実証されていることよりも現実に有効かどうかという点だと思うのですが、ただ実際に病気になったときに科学的な実証性の少ないものを下手に盲信することには、十分気をつけたほうが良いというのは間違いなさそうですね。


2010年 11月14日  ストレートとブレンド

ストレートとブレンドというとみなさんは何を思い浮かべるでしょうか?はい、そうですコーヒーですね。私 もコーヒーは好きですので毎朝、毎昼必ず飲んでおります。コーヒーの種類と同様、飲み方も様々でこだわり出すとキリがありません。私はコーヒーマニアでは ないので豆は挽かずにコーヒーメーカーで飲んでいますし、種類もはやはりお店にもよりますがブレンドが一番飲みやすいです。一般的にストレートは通好みで ブレンドは大多数向けといった感じを受けます。

さてこの
ストレートとブレンドという分類ですが、コーヒー以外にも実は他にも様々なところで使われていま す。カイロプラクティックは今では100種類以上のテクニックに分類されていると以前にもお話ししましたが、大きく分けると「ストレート」と「ミキサー」 の二つに分けられます。ストレートとは「純粋な」「混じりけのない」という意味合いで、カイロプラクティックの哲学に忠実に従った方法です。カイロプラク ティックとはイネイト(自然治癒力)の流れを阻害しているサブラクセーションを取り除くことであり、あとは腰痛だろうが、胃痛だろうがイネイトが勝手に治 してくれる。つまり症状を取り除くのがカイロプラクティックではないということです。サブラクセーションとなる椎骨をアジャストしたら、後は痛みがすぐと れようがとれまいがそれで終わりなわけです。「果報は寝て待て」ということです。

一方、ミキサーとは哲学よりもとりあえず痛みや症状を取り除くことに力を注ぎます。目的のためにはカイロプラクティックの手技だろうが、マッサージだろう が物理療法だろうが手段は選びません。ある意味一番受け入れられやすい考えであり、患者さんにとっても術者にとっても満足と安心感がありそうです。そして 現在カイロプラクティックの看板を掲げているオフィスの90%はこのミキサー派といえます。

どちらがいいかは別として大半がミキサー派である理由は、何よりもまず先ほど書いたように分かりやすいので患者さんにとって満足感が得やすいことですが、 実は一番の理由は術者側にあると思われます。「ストレート」というのは非常に概念的、信念的そしてシンプルです。なにしろ目に見えないイネイトだけが頼り なわけですから、強い信念と自信がなければやり通せません。それゆえに自ずと技術の精錬に力が注がれます。まるで日本刀を研ぐかのように技術に磨きをかけ ることで信念と自信の裏打ちをするのです。特に「ストレート」の中でもスペシフィックカイロプラクティックと呼ばれる上部頚椎(第一もしくは第二頚椎)し かアジャストしないテクニックがあります。首を一箇所矯正したら終わりで、後は30分ほど横になって寝るだけというスーパーシンプルなカイロプラクティッ クです。こうなると術者はさらに技術に磨きをかけようとします。シンプルですがそれは水面に浮かぶ一枚の葉を刀で切るかのような卓越した技術であり、ただ 捻ってボキボキするのとはワケが違うのです。

ですからどうしても多くの術者がミキサー派に流れます。技術不足を他の療法や機器で補う方が楽ですし、症状をその場ですぐにとってあげた方が術者も精神的 に楽ですから。もちろん必ず「ストレート」の方が技術が高くて、「ミキサー」は低いということではありません。概してこだわりが強い「ストレート」の人の ほうが技術志向だということです。カイロプラクティックは科学、哲学であり、そして芸術でありますが、最小限の労力で最大の効果を出す、それがカイロプラ クティックの醍醐味でありアートたる所以でしょう。ストレートカイロプラクターというのは自分たちを治療家だとは思っておらず、むしろアーティストである と思っているのではないでしょうか。

ところで私がカイロプラクターになるきっかけとなった原点である、ブルース・リーの截拳道(ジークンドー)も現在ではカイロプラクティックと同様、大きく 二つに分かれています。分け方は「ストレート」と「ブレンド」という言葉ではなく「オリジナル」と「コンセプト」という言葉で区別されています。オリジナ ルとは始祖(ブルース・リー)の教えを忠実に守り表現していくグループで、いわばストレートカイロプラクティックです。一方コンセプトとは始祖の教えや技 術をベースに、有効なものは外からどんどん取り入れていくグループでミキサーカイロプラクティックに相当します。

なぜコンセプトといわれているかというと、元来ジークンドーの思想は伝統にとらわれず自分にとって有効と思われるものは貪欲に吸収し、自分自身の方法を築 きあげるべきであるという、流派(スタイル)ではなく概念(コンセプト)であるといった誤った認識が、ブルース・リー死後数十年にわたって修行者の間では 定着されていました。その理由はジークンドーは時期と共に大きく変化し、またブルース・リーが生前にその最終的な形をたった一人以外に伝えていなかったた め、ジークンドーの成熟過程で伝えられていた「ジークンドーコンセプト」なるものが強調されてしまったためです。

ですからブルース・リーの技術や練習法よりもそのコンセプトに重きをおいたために「コンセプト派」と呼ばれるようになりました。実際にはそのような名称を 使われるようになったのはここ15年ほどですが、もともと「コンセプト派」と言われる前からジークンドーのスタンダードとしてが世界中に普及されていまし た。しかし、「ちょっと待て」とブルース・リーの教えに忠実なグループが長い沈黙を破ったのです。元々ジークンドーに分派も何もないのですが、あえて区別 するために彼らは「オリジナルジークンドー」と呼ばれるようになりました。

オリジナルジークンドーの哲学は「シンプル」「ダイレクト」「ノンクラシカル」という三本柱です。これはコンセプト派でも言われていることなのですが実際にはそれは体現されておらず、むしろ逆に向かっているよな気がします。また、「オリジナルジークンドー」の技術は当然「コンセプト派」でも実践されており、それをベースに展開しているのだから全く問題ないという勘違いをしている人が非常に多いようです。しかし同じ名称の技術でもその構造、メカニズムや使い方が全く異なるのです。

カイロプラクティックとジークンドーに共通することとして、ストレートカイロプラクティック同様にオリジナルジークンドーも、道具(テクニック)は少なく てもいいが徹底的に磨き上げるということです。コンセプト派は様々な技を覚えることによって様々な局面に対応しようと考えますが、オリジナルは数少ない技 を徹底的に磨き様々な局面で変化・適応させようと考えるわけです。また、ミキサーカイロプラクティックは様々なテクニックや療法を症状や痛みに合わせて使い分けるのに 対し、ストレートカイロプラクティックは症状を追わず、あくまでもサブラクセーションのみをカイロプラクティックアジャストメントによって取り除くだけで す。

結局のところストレートとミキサーというのは優劣の差というより、その人の性格や思考、及び技術レベルな どによって選ばれるのではないかと思います。例えば方法論や技術などに強いこだわりを持つようなアーティストタイプか、そつなく目的を達することを第一に 考えるタイプによって選ぶものが変わるのではないでしょうか。

しかし、一番のポイントは自分の技術がどこまでそのこだわりの中で通用するかだと思います。もし、第一頚椎のアジャストのみで結果的に治すことができるの であれば、あるいはストレートリードパンチだけで敵を倒すことができる実力があるのであれば、他に何か付随する必要はないでしょうが、そこま での力がないのであれば見栄をはったり変にこだわったりしないでその状態、状況に合わせた有効なテクニックを使った方が良い結果に結びつくと思います。つ まり、どちらかを選ばなければならないということではなく、技術に自信がないうちはストレートやオリジナルにこだわらずに上手く併用していけばいいのでは ないでしょうか。

結果的に、そういうとどうしてもミキサー派やコンセプト 派を下に見ているように思われてしまいますが、言い方を変えればコーヒーと一緒で通向けか一般向けかということだと思います。しかし、そんなことよ り実際世の中に支持されるのは、とっつきやすくまた確実に結果を出せる一般向けの方法であり、どちらの方が世の中に大きく貢献しているかといえばやはりミ キサー派なのかもしれません。理想は高く持ちたいですが、理想と現実の隙間をなるべく無くしていきたいと思っております。


2011年 2月4日  理想と現実

最近忙しくてサボっていました。というか長い文章を書くのが面倒臭くなってきました。まあ別にこれが仕事ではないのであまり義務感に追われる必要はないのですが。ということで今後もどうでもいいことをマイペースで書かせていただきたいと思います。

先日少々遅い新年会に行ってまいりました。参加者は短くても一年に一回会う人から、八年ぶりに会う人までという非常に稀少な会合でして、今後とも是非続け ていきたいものです。その時、たまたま隣に居合わせたTくんに昔紹介した小説について聞かれました。その時はサラッと話は終わったのですが、自宅に帰りふ とその小説のことを思い出し、本棚を探し始めました。本棚の片隅にひっそりと三部作が揃って並んでいましたので、取り出してペラッと読んでみるとおもしろ い・・・。最初は読むつもりはなかったのですが、思わず1ページ目から読み始めてしまい完読してしまいました。

その小説のタイトルは「拳鬼伝」。私がこの仕事に就く引き金にもなったとかならないとか言われている小説で(笑)、今読んでもおもしろいし、また懐かしく もありました。主人公は腕はたしかだけど目立たない風貌の整体師であり、実は常心流という武術の免許皆伝の持ち主で名は竜門光一。ある時、渋谷の不良ども がたった一人の黒ずくめの老人にみんな一撃で倒されてしまう。警察が追うと同時に竜門もその男を捜そうとする。竜門の患者である刑事から依頼を受け、状況 と不良たちの打撲痕を見て、その男が八極拳の高名手であることを見抜いた。竜門はその男に武術家としての尊敬の念を抱き、これ以上罪を犯させないよう説得 するために毎晩独自の捜索を始めた。

昼はボサボサ頭の見栄えのしない整体師だが、夜になるとディップで整髪しダブルのソフトスーツで決め込み渋谷に聞き込みに行く。レコードが鳴り響く客のい ない地下のジャズバーのマスターが情報屋的なキャラで登場。また、竜門整体院にはちょっと気が強いけど愛嬌のある真理ちゃんという受付の女の子が一人い る。お互いに好意を持っているようなのだが、竜門の素っ気ない態度とじれったさが微妙な関係でGOOD。格闘シーンや施術シーン、また専門用語の説明や理 論の説明が、作者自身が格闘家であり整体師であるということから細かい描写でリアルでいい。自己
活法と養生のシーンはスチーブン・セガールの映画を思い起こさせる。

私にとってのこの小説のツボは、やはりまず第一に整体院を生業とした武術家であるということ、第二に主人公の昼と夜のギャップのかっこ良さ、そして、整体 院の環境や描写です。実際これらのことは現実によくあることで特別なことではないような気がします。武道や格闘技をやってる人が整体やマッサージの仕事を している人は多いし、元来、接骨院で働く柔道整復師は柔道家のための仕事です。現に私も今は休止しておりますが幼少より武道は続けておりました。受付に可 愛い女の子を雇っている整体院も少なくはないでしょう。

しかし、実際に開業している今、この「拳鬼伝」的な生活はおろか竜門整体院のような経営はできていません。それはなぜか?まず竜門整体院はほとんど午前中 で患者を診て、午後は五時には終わる。とても理想的な生活ですが現実にはまずあり得ないでしょう。会社帰りに来院される患者さんは非常に多い。こんな一昔 前のお役所仕事みたいに五時で上がってはいられません。この仕事を実際に始める前は、仕事の後に武道の練習やトレーニングなどができるぞなどと目論んでい ましたが、実際には仕事が終わると疲れるし時間もないし両立なんてとてもできません。まあ独身で子どもがいなければまた違ったかもしれませんが。

また、竜門整体院はマンションの一階で、住居は別の階にあるというこれまた理想的な環境。遠くまで混んだ電車に乗って通勤するのも嫌だけど、同じ家の中で 仕事をするというのもメリハリがつかない。たとえ同じマンションあっても一旦玄関を出るという儀式があるのとないのとでは違う気がするのです。これもまた 独身なら違ったのかもしれませんが。そして、可愛い受付の女の子は今の経営スタイルからしたら
一人で事足りてしまうので必要ありません。ムリに雇っても利益よりも人件費の方が高くつきます。そしてこれこそ、独身だったら違ったのかももしれません(笑

というよなことを考えてみると、要は結婚しているかしてないかで大きく変わるということですかね。しかし、まあこれらの理想と現実の違いを置いといても純 粋にこの仕事は魅力的で、一生かけて勉強と修練を続けられる仕事です。カイロプラクティックやオステオパシーはただ揉んだりボキボキするのが上手くなれば いいといった単純なものではありません。非常にアカデミックであり、またアーティスティックでもあります。人間の体はまだまだ未知の世界ですから、徹底し た基礎医学とテクニックを基に臨床において検証を重ねていく作業の繰り返しです。

この小説は読むのは今回で三回目です。一度目は手技療法を本格的に勉強する前、二度目は勉強中、三度目は開業している今現在ですが、それぞれ見方や感想が 変わってきたことが分かります。特に治療技術や臨床に関する描写や説明ですが、一度目の時はスゴイなあ、こんなことができるんだという驚きや憧れのような ものでしたが、二度目のときはなるほどといった納得と理解に変わり、三度目の今回は教科書的というかそういう見方ややり方もあるねといった感想です。活法 的に胸椎を矯正したり、急所を使った攻撃などは武道と整体の活殺の関係を良く描写しているなあと思うのですが、整体院での患者の施術は骨の歪みを意識し過 ぎるように思えます。いわゆる整体・カイロ=骨の歪みを治す的なイメージそのものです。

オフィスでは最近ほとんど整体を行っておりません。なぜなら一般の生活をしておきている体の不調にはあまり適切ではないと思うからです。こういった一般の 患者さんの場合、骨が歪んだことによって症状が発症しているというより、自律神経的な問題の方が先で結果的に内臓反射的な歪みが生じているのではないかと 思うからです。ですから見た目に歪んだ骨を片っ端から矯正するのは刺激にはなりますが治療にはなりません。つまり整体というのは活法的な意味合いや使い方 をするのが本筋なような気がします。
もちろん私は整体の全てを習ったわけではないので断定はできませんが、なぜ整体は武道の一部だったかを考えるとその方が納得がいきます。

施術の描写の中で特に
気になったのは、後頭骨の中心から耳の間を7等分すると各内臓と椎骨に対応するとい うことだが、これはまさしくSOTの後頭骨ラインだと思われます。しかし、SOTではこれはあくまでもインディケーター、即ち診断点であり治療点ではあり ません。小説では後頭骨の各部所をそれぞれ押圧して内臓を整えると書かれています。これは作者の勉強不足なのかそれともSOTとは別の理論なのかは分かり ません。読んでいると?と思うところも少々ありますが、全体的に専門家が読んでも面白く読み応えがある作品です。

この小説を読んで描いた整体院経営とはだいぶ違ってしまいましたが、この仕事に就くための引き金と後押しになったので結果オーライなのではないかと思って おります。あまり万人受けする内容の小説ではありませんが、興味ある方は読んでみてください。みなさんには人生を変えてしまったような小説や映画などあり ますか?